赤紅色の恋


 コツコツコツ。男は鼻歌交じりに、白墨を黒板に滑らせながら文字を綴っていた。絶妙に音が外れており、お世辞にも上手いとは言えない鼻歌だったが、これは男の癖のようなものだった。癖というよりは、考えをまとめている証や、集中している証といえばいいだろうか。これが男にとっていい状態であることを理解しているラベンは、特に気にせず資料を捲っていた。
 コツコツコツ……カカツッ。男は手を止めて、青色の絨毯が敷かれている隣の部屋へと視線を送る。そしてさらに視線を奥へと向ける。桃色の絨毯が敷かれた医療隊の職務室では、隊員が部屋の中を慌ただしく行き交っているようだった。

「うん? なんだか医療隊が騒がしいですね。何かあったのかな」
「ムラの近くで大量発生したポケモンを退けるために外へ出ていた警備隊が帰ってきたようですよ。なんでも隊長が怪我を……ん!? ルーファくん、貴重な資料を投げ捨てるのはやめてください!」

 ラベンが言い終わるよりも先に、男――ルーファは手元の資料を放っていた。調査隊員服の上から着た白衣を靡かせて、ラベンの部屋を調査隊の部屋を突っ切り、走る。「静かに」と言い放つシマボシの声が聞こえたような気がしたが、ルーファの耳には届いていなかった。

「ペリーラさん!」
「よう、ルーファさん!」

 ルーファが医療隊の部屋に入ってきたのと、正面の扉が開き警備隊長のペリーラが入ってきたのはほぼ同時だった。ペリーラはいつものように湿った空気を吹き飛ばすような明るい笑顔で片手を上げているが、彼女が二本の足の片方に重心をかけて立っていることに、ルーファは気付いていた。

「今日も調査隊として、ラベン博士の研究の手伝いかい?」
「ええ。それより、怪我をしたと聞いたけれど」
「怪我なんて大袈裟なものじゃないよ! ポケモンの攻撃を避けるときに、ちょっと足を捻っただけさ」

 やはり、とルーファは眉を顰める。
 確かに、命に関わるような怪我ではないのかもしれない。しかし、その怪我をした状況によっては、一歩間違えば命に関わることだったのだろう。ポケモンの攻撃を避けるときに、とペリーラははっきり言ったのだから間違いない。
 ルーファは遠慮なしにペリーラの傍まで歩み寄ると。

「失礼するよ」
「え!? ルーファさ、え、えええええ!?」

 膝裏に手を差し入れ、背中を支えながら、彼女の体を抱え上げたのだ。医療隊のキネが「まあ」と言って口元に手を当てている姿を横目で見ながら、ルーファは医療用の寝台へと向かう。

「ま、待っとくれ!」
「待たない」
「自分で歩けるからさ!」
「足を怪我しているっていうのに、もっと酷くなったらどうするのかな?」
「だ、だってほら……わたし、でかいし……重いだろ……?」

 ヒスイ地方の外よりやってきたルーファは身長が高い部類ではあるが、ペリーラはその上を行く。さらには、警備隊長として申し分ない筋肉量を身に付けており、それに伴う重さがあることをペリーラは自覚していた。
 ふ、とルーファは口元を緩める。

「これでも調査隊で鍛えているからね。女性一人運ぶくらいなんてことないよ」
「!」
「キネさん、こっちの寝台を借りるよ」
「ええ。助かります、ルーファさん。医療隊だけでは手が回らなくて」

 確かに、とルーファは室内を一瞥した。
 現在、医療隊の職務室は人でいっぱいだ。訓練で怪我をした人、遊んでいて転んだ子供、腰を痛めたお年寄り、技を出すのに失敗して自分がダメージを受けたポケモン、などだ。

「触れても?」
「お、おう……」

 ペリーラを寝台の端に降ろしたルーファは、そのまま片膝を着いてペリーラの足に触れた。履物を脱がせ、制服の裾を膝下まで捲り上げると、足首が青白く変色していた。
 ルーファは腫れた患部に湿布を貼り、包帯を巻いていった。一連の流れるような動作を見ていたペリーラの感心した声が、ルーファの頭上から降ってきた。

「器用なものだねぇ。調査隊もいいけど、医療隊でもやっていけるんじゃないかい?」
「そうかもしれないけれど、ぼくは一応学者だからね。ラベン博士のもとでポケモンを調査、研究している方が性に合ってるんだ。同じギンガ団同士、男手が必要なときは手助けに入るけれど」

 医療隊に若い女性はキネ一人しかおらず、他は年配の女性ばかり。彼女たちは経験が豊富な代わりに、仕事を捌く速さはどうしても若い者に遅れを取ってしまっている。
 だから、医学の知識を持ち合わせているルーファが極稀に助っ人として呼ばれることがあるのだが。

「それから、あなたが怪我をしたときも」
「!」

 ペリーラが何かを守る代わりに傷を負ってしまったと聞いてしまったら、おそらく野外からでも飛んで帰ってくるだろうという自信がルーファにはあった。
 なぜなら――。

「できた。立てるかな?」
「……うん! ちっとも痛くない! さすがだね! ありがとう、ルーファさん」
「それはよかった」
「これで夕方の鍛錬にも出」
「ペリーラさん」

 立ち上がったルーファは、医療用の寝台に腰掛けるペリーラを見下ろし、燃えるような赤毛をそっと撫でた。

「くれぐれも無理はしないように」
「……はい」

 ――ルーファにとってペリーラとは、かけがえのない大切な女性なのだから。
 しばらく寝台で安静にしているようにと釘を刺し、ルーファは踵を返した。医療隊の職務室を出て、調査隊の職務室を横切り、ラベンの研究部屋に戻る。
 ルーファがペリーラを抱え上げる様子を見ていたラベンは、目を瞬かせてみせた。

「驚きました。いつから警備隊長と恋仲だったんです?」
「いいえ。まだ口説いているところですよ」
「えっ?」
「ぼくがどれだけ想いを囁いても、顔を紅色に染めてすぐに逃げてしまうんですよ。まるでミミロルみたいにね。そんな可憐な姿も可愛らしいのですが……ふふ。追いかけっこも楽しいですけど、いずれ捕まえますよ」

 計算高く外枠から埋めていく調査隊員の男と、腕っぷしが強い反面しおらしい警備隊長の女。二人の恋の行方は、まだ誰にもわからない。



2022.02.18

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