私は誰の事も愛してはいないのかもしれない。私が愛だと信じているものは、きっと愛の紛い物ですらないだろう。そう思い込むことによって自らの不安や焦燥感に意味を与えようとしているだけだ。私は、誰の事も愛してはいないのかもしれない。愛していないのではなく、愛せていない、が正しいのかもしれない。かもしれないばかり、私は私のことが一つもわからない。性別、名前、肉体、声……様々な要素によって、「私」は構成されているが私は私の性別も、名前も、肉体も、声も、一つとして、はっきりと認識できているものがない。幼い頃からずっと、自分は男性でも女性でもないと感じていた。大人になって、自分は男性にも女性にもなれないのだと悟った。私は私の名前がわからない。名前を呼ばれるたび、ものの名前を初めて知る時のような妙な感覚を得る。それがもう、随分長い間続いている。私は私の肉体がわからない。鏡を見ても、それが自分の身体だとは到底思えない。声はいつも、他人が発する声のように私の頭の奥をすり抜けていく。自らを愛せなければ人を愛せないとはよく言うが、私の場合、自らを愛す以前に、自己があまりに曖昧なのだ。愛を定義する前に、自らを定義せねばならない。一体どこでずれが生じたのか、全く見当もつかないが、このずれを修復しない限り、きっと、このままどこか他人事のように生きて、それが悲しい事なのかもわからないまま、あなたのことを愛したい、と切に願いながら、死んでいくのだろう。