小さな頃、パンパンに腫れ上がった母の腹を見て泣いたことがある。不安だったのだ。もう手遅れなのだと諦めて、鼻を鳴らし、静かに泣いた。そんな俺を見た母は眉を下げ「新ちゃんはお兄ちゃんになるのよ」と穏やかに笑った。

お兄ちゃんになんてなりたくない。弟なんていらない。母の腫れ上がった腹を得意のキックで蹴りあげてそう喚いてやりたかったけど、穏やかに笑いながら俺の頭を撫でる母の手が温かくて、俺は鼻を鳴らし握り締めてくしゃくしゃになった服の裾を眺めることしか出来なかった。

あの時の俺は知っていたはずだった。
コウノトリさんがお母さんのお腹に赤ちゃんを運んできてくれることを知っていたはずだった。
それなのに何故俺はそれを忘れ、母はもう手遅れだと思い込み、涙を流し、絶望したのか。


ーー全てはなまえちゃんのせいだった。


「新ちゃんのママ、お腹どうしたん…」
「なにが?」
「ぱんっぱんに膨らんでるよ…」
「………ほんとだ…」
「風船みたいだよ…」
「ほんとだ…」
「パンって割れちゃうよ…」
「われちゃう…」


小さな頃、俺の中でのなまえちゃんは『凄い人』だった。
卵を綺麗に割れるし、泥団子だってまん丸に作れるし、高いところから飛び降りれるし、パンチもキックも強くて痛かったし、なまえちゃんのお母さんが怒りそうな時は誰よりも早く逃げたし、ごめんなさいと謝って許してもらうのだって、大人みたいに上手かった。

小さな俺の世界でなまえちゃんは『凄い人』だった。
そんななまえちゃんが"母の腹が割れる"と言ったのだ。風船みたいに膨らんでパンっと割れると言ったのだ。

泣いた。俺は『人間というものはショックが大きすぎると声すら出ない』ということを幼少期に知った。


「弟なんていらない」
「新ちゃん」
「お母さんがいいぃ…」
「な、泣かないでよぉ」


お母さんには言えなかったことも、なまえちゃんには言えた。なまえちゃんは優しい。俺の心が読めてるみたいだった。なまえちゃんは魔女なのかもしれないと、かぼちゃを馬車に変身させた凄いおばあちゃんの絵本を見て思ったことがある。

ボロボロと涙を零して泣き喚く俺を、なまえちゃんは持っていたクワガタを放り投げて抱きしめてくれた。泥と樹液で汚れて真っ黒になった手を俺の頬にべっとり…と擦り付けて 涙を拭いてくれた。


「大丈夫だよ新ちゃん」


カラスが鳴いたらお家に帰らなければいけない。カラスの鳴き声は俺の泣き声より大きかった。
なまえちゃんに手を引かれながら家に帰っていたら、なまえちゃんは突然振り向いた。虫取り網をオレンジ色の空に突き刺して、フンッと鼻息を荒くして、涙の跡で黒くなった頬をパンパンに膨らませて、大きな声でこう言った。


「新ちゃんを泣かすやつなんて私がぶっ殺してやるから大丈夫だよ!!」


なまえちゃんは野蛮だ。
なまえちゃんのお父さんは"すきやきは弱肉強食だ"と高々に笑い俺のお兄ちゃんを泣かせた人だった。なまえちゃんのお母さんは怒ると怖くて鬼みたいだ。なまえちゃんのお兄ちゃんは戦隊モノが大好きで、特に悪役が好きだった。なまえちゃんは野蛮だ。


「なまえちゃん…」
「大丈夫だよ!新ちゃん!」


そう言って俺の手を強く握るなまえちゃんの目は、キラキラと金色に光っていてティラノサウルスの目みたいだった。目にいっぱいの涙を溜めてなまえちゃんは俺を慰めてくれた。


「…ありがとう、なまえちゃん」


なまえちゃんの目から涙が零れないように、繋いでない方の手でなまえちゃんの瞼を撫でた。そうしたらなまえちゃんの目から涙がいっぱい零れた。
俺の中で『凄い人』だったなまえちゃんが、いっぱい泣いた。大きな声で泣いた。カラスの鳴き声よりも大きな声で泣いた。


「…なまえちゃ、」


喉の奥が締め付けられたみたいに痛くて、なまえちゃんに大丈夫だよって言ってあげたいのに声が出なかった。
ショックだったのだ。なまえちゃんが泣いたのが、ショックだった。人間というものはショックが大きすぎると声すら出ないのだ。俺はソレを知っていた。


カラスの声が聞こえなくなった。なまえちゃんの涙はもう金色に光ってなくて、空はもう真っ暗だった。
俺のお兄ちゃんとなまえちゃんのお兄ちゃんが大泣きしながら俺達を抱きしめて、四人で手を繋いで家まで帰ったら、なまえちゃんのお母さんに身ぐるみを剥がされ熱々のお風呂に放り込まれた。


熱々のお湯がなまえちゃんの真っ黒の頬を綺麗にする。なまえちゃんの涙はもう見たくなかった。


「なまえちゃん」
「なぁに」
「俺がなまえちゃんを守るからね」


俺を泣かすやつをなまえちゃんがぶっ殺してくれるなら、俺はなまえちゃんが泣いてしまわないようになまえちゃんを守るよ。
そう言うとなまえちゃんは嬉しそうに笑った。ホカホカに温まった小指を絡めて指切りげんまんを歌った。
嘘をついたら針を千本飲まなきゃいけないから、飲みたくないから、俺は絶対になまえちゃんを守るよ。と なまえちゃんのお父さんとお母さんに誓った。


「マセガキだな」
「プロポーズだわ」


と なまえちゃんのお父さんとお母さんは笑っていた。小さな俺は、マセガキなんて言葉もプロポーズなんて言葉も知らなかった。



お母さんのお腹はパンっと割れなかった。
しわくちゃで猿みたいな赤ちゃんを見たなまえちゃんが「指切りげんまん針千本今だけ中止!!」と病室で叫び、俺達の約束は一瞬で破られてしまったけれど。お母さんが幸せそうに笑うから。俺の人差し指を小さな手で握る弟が可愛いから。
小指と小指、指切りげんまん針千本は"今だけ"中止だ。


無題


マエ モドル ツギ

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