110:九つ

理解したと同時に、木々の方向に走って逃げたけれど、女の子は私の頭上を軽々と飛び越え、すとん、と目の前に降り立つ。

「あの人みたいに、たべてあげるね。おねえちゃん」

殺される。
脳内に映像として現れた四文字の言葉に、左手が無意識に動き、隣の木を根本から引き抜いて自身の前に突き出した。

木の割れる音と、左手だけで殺せる程度の衝撃。大人二人分程の太さの木越しに覗くと、鬼の子の右手は木の途中で止まっていた。爪が木に食い込んで離れないのか、小さな身体を使って引き抜こうともがいている。
その様子から気付く。

(……そうか)


きっと、この子は弱い、と。


(なら……)

右手を見る。今は普通の爪だけれど、この右手と左手を使えば、鬼を倒すことが出来るかもしれない。
ごくりと唾を飲み込み、右手を構えた。

(…………)

…けれど、構えた右手は酷く震え、それ以上動くことも爪がのびることもなかった。

豪腕の鬼が爆散した後の惨い光景。良心の呵責に耐えきれぬ、生き物を傷つけ殺すという行為。そして…花子ちゃんの笑顔と、鬼の女の子の顔が重なり、右手の力が抜け落ちる。

「……っ!!」


苦渋に顔を歪ませながら右手を完全に下げ、逆に左手を高く上げ、ぐっと力を込めて木を投げ飛ばした。風を切る音を鳴らしながら女の子は木と共に遠くまで吹っ飛んでいく。
木が地面に衝突する前に、耳を塞ぎ森の奥へと走って逃げた。










「……殺せ…ないっ…!」

牙と爪、瞳孔を抜かせば、見た目は普通の人間の女の子だ。それに、鬼の子の前に横たわっていた、大人の女性。同じ服装と鬼の子の台詞から、親子のようにしか思えなかった。だけど、女の子は鬼。横たわり息だえていた女性は、おそらく人間。

(鬼ってなんなの…?!)

まさか、ゾンビや吸血鬼みたいに、元は人間だったりするのだろうか。だとしたら、あの鬼の女の子も、私が殺してしまったあの豪腕の鬼も……人間だった…?

「うっ!」

仮説の残酷さに吐き気を催し、咄嗟に近くの、子供の背丈程の岩と大きな木の間に隠れた。こみ上がる胃酸を抑えるように、背中を丸め荒い呼吸を繰り返す。

私を殺した、ただの化け物と思っていた、豪腕の鬼にでさえ、あの後、罪悪感と後味の悪さで苦しんだと言うのに。それが元は…人間だったかも知れない。

「私は、人殺し…」

一生口にする事は無かったはずの言葉。


言い訳するように両手で地面を叩いた。

違う!違うっ!あれは、鬼!殺してなかったら、また何度も殺されていた!しょうがない!しょうがなかったの!私は…!

「おねえちゃんどこにいったの?」
「っ!!」

鬼の子の声がそう遠くない距離で聞こえ、反射的に口元を両手で強く抑えた。

「投げ飛ばすなんてひどいよ。出て来て?食べてあげるから」




(ミンナノタメニ、フクシュウノチカラヲツケルト、キメタンジャナイノ?)

突然、脳内に響き渡った自問自答するかのような、コエ。

そうだ…。皆を目の前で殺された、あの憎悪を復讐心を思い出せ。墓前に誓った覚悟を思い出せ。必ず、復讐するんでしょ。今は弱くて勝てなくても、倒す方法を見つけるって決めたんでしょ。死ねば、死ぬほど強くなれる。皆の仇も取れる。炭治郎君と禰豆子ちゃんを守る事が出来る。

(ソウ。カクレチャダメ。イマスグシニナサイ。ソシテ、アノオニヲコロシテ)

(そうだ…いますぐ鬼の前に出て、殺されなきゃ。それが私に出来る唯一の道。行け…私!)

鬼の子の足音がすぐ近くから聞こえる。
足を一歩踏み出して、殺されて力を奪わなきゃ!鬼の子のあの跳躍力。あれがあればもっと強くなれる。……そう心で強く念じても、私は岩と木に隠れたまま動けなかった。だって…

(………こわい)

身体の震えは止まるどころか大きくなり、足も縫い付けられたように動かない。

(こわい…、痛いのがこわい)

注射やかすり傷程度であの激痛。身体を裂かれた瞬間の衝撃を思い出すだけで、気が狂い暴れてしまいそうな、植え付けられた痛みの記憶。

(死ぬのがこわい……)

死ねば必ず生き返れるの?絶対に死なない保証なんてないし、そのまま目覚めることなく、死に際にみる孤独な暗闇に囚われ悪夢を永遠に見続けながら、死んでしまうかもしれない。

(幸せの花を咲かす両手だったのに。傷つけて殺してしまう、この両手がこわい…)

人に近い生き物を自らの手で傷つけ殺してしまった、罪の意識。


殺される覚悟も、殺す覚悟も出来ない。
あんなに優しかったみんなの報いに返すことが出来ない自分が卑怯で悔しくて、無力で、弱くて、情けなくて、大嫌い。

いつの間にか鬼の子の声も足音も何処かに消えていた。逃げ切れて、ほっと安堵した自分の卑しさに、ぼろぼろと涙が止まらない。

「もう、……嫌だ」

全てが上手くいかず、悪い方向ばかりに転がっていく惨めな現状に、我慢していた弱音が口から漏れだす。
もう嫌だ。中途半端で意志薄弱な自分も、こんな状況も。

「……あの頃に帰りたい」

何度も思い出すのは、幸せだった頃の竈門家の皆の笑顔と、

「……………帰りたい」

お父さん、お母さん、弟、お祖父ちゃん、お祖母ちゃんがいる未来の家族の笑顔。

「……未来に、帰りたい」

全てから逃げ出す様に、身を丸めながら涙で地面を濡らす。手の届かない所に消えてしまった幸せに夢を見ながら。

















炭治郎君と禰豆子ちゃんが偶然通りかかる事もなく、未来への扉が突然開くこともなく、実は悪い夢を見ていただけでしたなんて甘い奇跡が起こる事はなく、ただ時間だけが無情に通りすぎた。
もう、鬼の子の気配はしない。今の内に移動しようかと思っていると、誰かの足音が聞こえてきた。気のせいではなく、走る音はだんだんとこちらに向かってきている。

また別の鬼かもしれないと、涙を拭き、口に両手を当て呼吸音が漏れないように、気配を潜めた。

(……あれ?)

近づく音に怯えていると、地面に、岩と木の影が生まれたのに気づいた。夜が明け日が差したのだろう。

(夜が明けた…なら、この足音は鬼じゃない?)

太陽の光が作り出す岩と木の影を見ていると、そこに一つの人型の影が、ぴょこんと生まれた。その影は私側を覗く形を作っている。









「女の子の泣いている音がする!」

声に振り向くと、岩からこちらを覗いていたのは、炭治郎君と同じ年頃の、髪の毛の黒い男の子だった。

関連話 33


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