木の葉の擦れる音や鳥の囀りが静かに響く。地方から来た者なら、東京だと言われても誰も信じないような自然に囲まれたこの場所こそ、呪術界の要…東京都立呪術高等専門学校だ。

「すっげぇ山ん中。本当にここ東京?」

不思議そうに辺りを見渡す虎杖くんに、彼が「東京も郊外はこんなもんよ?」と答えているのを少し後方で聞きながら足を進める。
あの後高専に着いてすぐ伏黒くんは寮へ戻り、私と虎杖くんは学長である夜蛾先生の元へ向かっていた。

「じゃ、まず悠仁の面談からね。名前はここで待ってて」

建物の前に辿り着くと彼にそう言われ、2人が扉を開け中に入って行くのを見送った後7年ぶりの母校に想いを馳せた。

この場所には様々な思い出が詰まっている。思わず笑みが溢れてしまうようなものから鋭い痛みが伴うものまで、本当に様々な思い出が。
それらを手放し二度と戻らないと決めてこの地を去ったというのに…また戻ってくることになるなんてと小さく息を吐いた時、微かな音を立てて扉が開いた。

『どうでした?』

「無事合格。今から悠仁を寮に案内するから、名前は学長に会ってきて」

その言葉を聞き視線を横にずらすと、頬を押さえ涙目になっている虎杖くんと目が合う。

「ってぇ…名前さんマジで気をつけて!!人形に殴られっから!!」

『…心配してくれてありがとう』

……まぁ私が殴られるのは呪骸にではなく、夜蛾先生本人なのだけれど。

そうして彼らと入れ違いに中へと入り、中央に佇むその人の前で足を止める。ひやりと冷たい空気が漂っているのは窓のない部屋だからか…否、目の前の人物が醸し出す怒りからくるものだろう。

「いつからだ」

『反転術式を自分に使えるようになったと同時にです』

「…要は10年前のあの時からって事か?」

『はい』

少しの沈黙。そして盛大なため息を漏らすと同時に夜蛾先生の拳骨が頭に降りかかる。
それが来るのは分かっていたから避けようと思えば十分避けられた。…けれど避ける事はせず、そのまま甘んじて受ける。
鈍い音と共に衝撃が走り、痛みに耐えて頭を手で押さえていると夜蛾先生が眉間に皺を寄せ私を見下ろしていた。

「お前が高専卒業と同時に呪術師を辞めると言い出した時、それを了承したのは俺だ。上も俺が監視役として随時連絡を取る事を条件に認めた。…だが反転術式を他人に扱えるというのであれば話は変わってくる」

『だから言わなかったんです。この事実を言ってしまえば辞められなくなる…それが嫌だったから隠してたんです』

10年前のあの日…高専卒業に合わせて呪術師を辞めようと決意したから、この件に関しては誰にも言わなかったのだ。
…まぁ、自分の失態でそれも水の泡になってしまったけれど。
未だ眉間に皺を寄せる夜蛾先生を見据えていると、片手で頭を抱えるような仕草を見せた。

「…兎に角、こうなった以上呪術師として復帰してもらう。いいな?」

『……分かりました』

本当は復帰は避けたいところだったが、やはり反転術式を他人に施せる以上避けられない道かと溜息が漏れる。と、同時に夜蛾先生の低い声が部屋に響いた。

「霊鬼はどうだ。変わらずか」

『…今は眠っている間、その日の出来事のみ夢に視ます。ただ"縛り"の内容に関する事で無いものは断片的です。なので昨日も悟せんぱ…五条さんが来るとは知らず現場で出会してしまいました』

「そうか…上はお前が戻ってきたのなら霊鬼を利用するようにと『何度目ですか、それ』

言われるだろうとは思っていた。…思っていたが、同じ事を繰り返そうとする上の連中にどうしようもない怒りが込み上げてくる。

『未来を変えても結果が変わらない事もあれば状況が悪くなる場合だってある…それを何度も、何度も経験して…っ、だから極力視ないよう呪力の譲渡も最小限にしてるっていうのに…!』


呪術師に戻れば必然的に人が死ぬ未来を視る事も増えるだろう。でもその未来を変えた先に待つのは、決していいものばかりではない。それ相応の代償を支払う事にもなる。

……10年前の、あの日のように。


『だからどんなに悪いモノが視えようと、私は無闇矢鱈に未来を変える気はないです』


上が何と言おうと譲れない。同じ過ちは繰り返したくない。
その思いを伝えると先程のように暫しの静寂が訪れ、夜蛾先生が小さく息を吐いた後視線をこちらに寄越した。

「…分かった。お前の処遇はまた決定次第知らせるから、とりあえず医務室へ行け。そこに硝子がいる」

一先ず夜蛾先生は自身の気持ちを汲み取ってくれたのだろう。後は上がどう出るか。
話を終え頭を下げると、踵を返し扉へ向かう――が、その足を止めて再度振り向いた。

『夜蛾先生、一つ言い忘れてましたが…呪術師に復帰しても五条さんとは一切関わらないので。記憶が蘇っては面倒ですから』

彼の記憶を消した理由を、夜蛾先生は知っている。だから態々言わなくても分かってくれるだろうとは思っていたが、念には念をだ。

「…悟の為か。そうやって人の為に自己を犠牲にするところは椿に似たな。外見は…益々父親に似てきたが」

『別に母の真似事をしているわけじゃありません。それと、呪詛師に堕ちた父の話はしないで下さい』

懐かしむような目で見られても、私は父の事なんて知らない。それに母の事も聞きたくない。…色々と、思い出してしまうから。

今度こそ言いたい事を言い終えた為、夜蛾先生に背を向け部屋を後にした。






高専内の廊下をひたすらに進む。懐かしむ気持ちはあれど、この後起こることを考え次第に鼓動の音が速くなっていく。
そうして遂に医務室まで辿り着き、一つ大きく深呼吸をしてから扉の取っ手に手をかけた。

開けた先に見えたのは椅子に腰掛ける女性。こちらに振り向いた事で椅子が微かな音を立て、腰の位置まで伸ばされた黒髪が揺れる。視線が交わった瞬間その口元が弧を描いた。

「ひっさしぶりじゃん、名前」
『…お久しぶりです、硝子先輩』

言いながら部屋の中へ足を進めると、硝子先輩も立ち上がりこちらに近付く。そして夢で視た通り両頬をぎゅっと摘まれた。

「私らに一言も告げず姿消して、そのまま音信不通。それで今になって五条に見つかって連れてこられたって?バカだな」

呆れたような…しかし微かに怒気の籠った目で見つめられる。それは夢で視た通りのものだったが、やはり現実でそれを目の当たりにすると夢で感じた何倍もの感情が心を覆い尽くした。

硝子先輩の手が頬から離れていき、座るよう促される。言われた通り椅子に腰掛け向かい合うような形になると、机に片肘をついた彼女が再度口を割った。

「7年前夜蛾学長に話聞いた時、まぁ驚いたよ。名前が五条の記憶消して呪術師辞めたって言われるわ、名前の話を今後一切五条にすんなって口止めされるわ」

『……すみませんでした』

「で、なんで五条の記憶消したの」

『………』

「言いたくなきゃ言わなくていいけど…でもアンタ五条に記憶戻ったらタダじゃ済まないんじゃない」

『…たとえ思い出しても憎んでくれるなら、そっちの方が有難いです』


記憶を消した事を恨んでくれるのなら…愛が呪いに転ずるのならばそれでいい。

ただ…もしその逆になってしまったら―――


「…何が原因かは知らないけど、五条にとって名前はデカい存在だった。だからこそ消したってわけ」


それを聞き、膝の上に置いていた両手を握りしめる。返事を返す代わりに細く息を吐くと、持っていた鞄から煙草と携帯灰皿を取り出した。

『…吸ってもいいですか』

「なに、アンタ煙草吸ってんの」

『呪術師を辞めてから吸い始めたんです』

「へぇ…一本頂戴」

自分のを取り出した後先輩にも渡し、ライターで互いの煙草に火をつける。
慣れた手つきで煙草を指に挟み口に銜えるその姿は7年前とまったく変わらないなと思っていると、煙を吐き出した唇から言葉も漏れた。


「あーあ、禁煙5年目にして失敗に終わったわ」

『え、禁煙してたんですか』

「そうだよ」


知らなかった、あんなに吸っていたのに禁煙していただなんて。

先程は変わらないな、なんて思っていたが、やはり時が経てばそれだけ人や物…想いは少しずつでも変わっていくのだと、ぼんやり考えながら自身の吐き出した煙を眺めた。


―――内に秘めた変わらぬ想いには、気付かぬフリをして。



(2021.2.25)

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