「…ったく、やってらんないっての」

失踪した1級術師の尻拭いなんて。そうぼやきながらも該当する呪霊を祓い終え、帳を解除する。
途端に闇に包まれていた空間から曇天の空が顔を覗かせ、細い糸のような雨が降り注ぐ。

ああ、そういえば今日は雨だったっけ。

「……」

無下限があるから濡れることはない…けれどこの雨音を聞く度に、何時からか得体の知れない感情が湧き出てくるようになった。

ギシリと嫌な音を立てて身体の内側が軋むような、そんな感覚。

(…いや、"何時から"なんて解ってるか。確かあれは――)

その時不意に携帯が振動し、脳裏によぎったモノを思考の端に追いやり通話ボタンを押す。きっとまた任務だなんだと七面倒くさい内容だろうと思いながら。

…しかし告げられた言葉はそういった類の話ではなかった。


「五条さん、任務が終わり次第至急高専へお戻りください。

――…虎杖くんが、亡くなりました」





高専内にある死体安置所…そこに横たわっている悠仁の遺体を見据え、検死台に腰を下ろす。

「わざとでしょ」

口から溢れた言葉は自分で思う以上に冷たさを纏っていた。隣で佇んでいる伊地知にもそれは十二分に伝わったようで、微かに怯んだのを感じ取る。

「…と、仰いますと」

「特級相手。しかも生死不明の5人の救助に、1年派遣はありえない。…それに悠仁は僕が無理を通して死刑に実質無期限の猶予を与えた。それを面白くない上が、僕の居ぬ間に特級を利用して体よく彼を始末したってこと」

他の2人が死んだとしても、僕に嫌がらせが出来て一石二鳥とでも思ってんだろ。

「いやしかし…派遣が決まった時点では本当に特級になるとは…」
「犯人探しも面倒だ…いっそのこと上の連中――」


―――全員、殺してしまおうか


先ほどよりも明らかな殺意を込めて言葉を放つ。伊地知を脅したところで何も還ってきやしないと分かっていても、今この感情を押し殺すことなんて出来なかった。


「珍しく感情的だな」


その時、安置所の自動ドアが開くと同時に重くなった空気を一掃するかのような声が耳に届く。

「彼のこと、随分とお気に入りだったんだな」
「…僕はいつだって生徒思いのナイスガイさ」

入室してきた人物――硝子が、あまり伊地知を苛めるなと言葉を続けるがそんなこと知ったことか。そもそも男の苦労なんざ微塵も興味がないのだから。

その話題を振ってきた硝子もさして興味がなかったのか、早々に会話を切り上げると検死台に横たわっている悠仁に視線を移す。

「で、これが宿儺の器か…好きにバラしていいよね」
「しっかり役立てろよ」
「役立てるよ、誰に言ってんの」

迷いも淀みもない声に、張り詰めていた空気を漸く解いた。
死んでしまった事実は変わらない…けれどこのまま"死んで終わり"にだけはならないと、目の前にいる同僚の言葉は今この場において何よりも信頼に値するものだったから。

そうして解剖の準備を始めた硝子を伊地知と眺めていた時、ふと思った事を口にした。

「僕はさ、性格悪いんだよね。教師なんてガラじゃない、そんな僕が何故高専で教鞭を取っているか…聞いて」
「な、なんでですか…?」
「…夢があるんだ」

悠仁の事でも分かる通り上層部は呪術界の魔窟、そんな呪術界をリセットする…それが僕の夢だ。
上の連中を皆殺しにするのは簡単だ、でもそれじゃあ首がすげ替わるだけで変革は起きない。

「だから僕は教育を選んだ、強く聡い仲間を育てることを。…それに――」



――「そうすれば____ことに繋がる」――



「…?どうされました?」
「……いや」

(…またか、この感じ)

以前にも同じようなことがあった。脳が焼けるような、残像が一瞬だけ脳内に溢れるこの感覚。これはきっと消された記憶――名前に関する記憶の欠片だ。

そう理解したところで、また奥深くに潜ってしまった欠片を掴むことは出来ず。疑問を抱く伊地知に適当に返事を返していると、準備を整えた硝子が「ちょっと君達、もう始めるけどそこで見てるつもりか?」と此方を振り向いた――その時。

「おわっフルチンじゃん!!」

驚きの声を上げ身体を起こした悠仁。胸に開いていた穴は塞がり、自身の姿に羞恥の色を浮かべる様は先程まで死んでいたのが嘘かのように生気に満ちている。

「ご…っ五条さ…!い、生き、生き返っ……!!」
「……クク…ッ伊地知うるさい」

死んでいたのに生き返るなんて普通はありえない、十中八九宿儺が絡んでいるはず。
…けれど悠仁が帰ってきた。今はその事実だけで十分だ。

「おかえり、悠仁」
「オッス!ただいま!!」



あの後驚きで放心している伊地知に悠仁を任せ、硝子と共に死体安置所を出て高専内を歩く。

「あー…報告修正しないとね」

そうぼやく硝子に対し、記録上死んだままにしてくれと伝えた。このまま上に知らせてもどうせまた狙われる…だったら今の内に最低限の力をつけさせた方が得策だ。

「じゃあ虎杖がっつり匿う感じ?」
「いや、交流会までには復学させる」
「何故?」
「簡単な理由さ。若人から青春を取り上げるなんて許されていないんだよ…何人たりともね」

(…それに交流会となれば、楽巌寺学長もその場にいるはず)

今回の一件に保守派筆頭のあの人も少なからず関わっているだろう。そんな中目の前で"実は生きてました"なんて知らせたらあのジジィどんな顔するか…今から楽しみで仕方がない。

その様子を思い浮かべ、つい口元を緩めていた時。


「…名前には言わないのか?」


唐突に紡がれたその名に、ピクリと身体が反応する。視線を隣に移すといつもと変わりない表情で前を見据えていた。

「名前も現場に居合わせてるんだよ、虎杖が死ぬ間際にな。それに恐らく…」

硝子が言葉を途切らせ、沈黙が訪れる。それ以上話す気はなくなったようだが、その後に続くだろう言葉は容易に想像出来た。

「…なるほどね。で、当の本人は今何処にいんの」
「都内の任務にあたってる。今日は高専には寄らずそのまま帰るだろうな」

言い終えると「じゃあね」という言葉を残し硝子はこの場を去っていく。一人取り残され何気なく空を見上げれば、眩い夏の陽光が辺りを照らしていた。

昨日降っていた雨は嘘だったかのようにカラリと晴れ、何処からか聴こえてくる蝉の声が暑さを助長させる。…しかし脳内に映し出されていたのはまったく逆の光景だった。

花びらが散りきった萼だけの桜と―――



――細い銀糸のような雨――


「…昨日の雨と同じだな」

名前と関わるようになり一瞬脳内に溢れることはあっても記憶は蘇ることはなかったが、そんな中一つだけ思い出したモノ。
…元々持っていた記憶で奥底に眠っていた、モノ。


あれは7.8年前――耳に届く雨音で目覚めた。ぼんやりとした意識の中窓の外に視線をやると雨が降っていて、微かに見える桜の木は既に花が散った後だった。

――そこで感じた、微かな違和感。

意識がはっきりしてくると自室ではない事に気付いた。今自分がいる場所は高専の寮の一室…それも何も置かれていない空き部屋だ。

戸惑いつつ身体を起こした時、更におかしなことが2つ自身の身に起こっている事に気付いた。

1つ目は頬が濡れていたこと――…そう、何故か涙を流していた。その事実に心底驚いた。泣いたことなんて今まで一度もなかったから。
2つ目は身体の中に自身のものでない呪力が微かに流れていたこと。身体は正常、特に何もない。だが明らかに術式を施された形跡がある。

そんな異常事態にも関わらず不思議とその状況を受け入れている自分がいた。
…それは残穢が、内に流れる誰かの呪力が、酷く心地よかったから。

「………っ……!!」

咄嗟に辺りを見渡し口を開いた…けれどそれは声にはならず。必死に腹の中の重いモノを吐き出そうとするのに、それは出てこなくて。

何かを…"誰か"を呼びたいのに呼べない。
言葉も、名前も、何も出てこない。

それがあまりにも苦しくて、暫くベッドから動けなかった。…そこからだ、僕が雨音を聞くと得体の知れない感情に苛まれるようになったのは。

きっとあの日、あの時に記憶を消されたのだろう。

吐き出したかった言葉も、それを伝えるべき"誰か"も。それはすべて名前なのだろうということも。

そう解ったところで今のところ何も思い出せてはいないが、それでも少しずつ綻び始めているのは確かだ。…あとは唯、きっかけを積み重ねていくだけ。

止めていた足を動かし、向かうべき場所は一つ。


「さて…今日は素直に会ってくれるかな」



***




―――同時刻、都内某所。

「…わざわざ貴重な指一本使ってまで確かめる必要があったかね、宿儺の実力」

異形の姿をした単眼の呪霊――漏湖は、向かいの席に座る一人の男に尋ねる。傍らには同じく志を共にした呪霊が2人。

「中途半端な当て馬じゃ意味ないからね。それなりに収穫はあったさ…それに、理由はそれだけじゃあなかったし…」

思案する男に対し、漏湖が理由とは何かと更に問いかける。しかし男はそれ以上答える気はないようで、薄く笑みを浮かべ首を振った。

「いいや、何でもないよ。…それで本題だが、つまり君達のボスは今の人間と呪いの立場を逆転させたいと、そういうわけかな」

「大体はな。嘘偽りのない負の感情から生まれ落ちた我々こそが真実、真に純粋な人間だ…偽物は死して然るべきだろう…!!」

「だが現状、消されるのは君達の方だ」

「だから貴様に聞いているのだ、我々はどうすれば呪術師に勝てる」

頭部をぐつぐつと煮立たせ詰め寄る漏湖に、男は二本指を立て話し始める。

「戦争の前に二つ条件を満たせば勝てるよ。一つは呪術師最強と言われる五条悟を戦闘不能にすること、もう一つは両面宿儺…虎杖悠仁を仲間に引き込むこと」

「…?ちょっと待て、死んだのであろう?その虎杖というガキは」

「さぁ…どうかな」

その思惑を理解出来ず漏湖は顎に指を添え考える中、男はこれから起こるであろう未来を思い浮かべ、妖しく笑う。

「ねぇ漏湖…未来は変えられると思うかい?」
「何を藪から棒に」

なんの脈絡もなく発せられた言葉を聞き怪訝な表情を浮かべる漏湖に、男はより一層口角を上げ目を細めた。


「―――もしもの、話さ」



(2022.2.28)

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