任務を終え、いつものようにベランダへ出て煙草を銜える。空を見上げると暑い雲に覆われていた昨日とは打って変わって、少ないながらも星が瞬いていた。

『……』

あの雨で冷えた身体は、当に熱を取り戻している。むしろ今は夏の暑さにやられて額から汗が滲むくらいだ。
…けれど心だけは、未だ鉛がのしかかっているかのようにズシリと重く、冷たい。

少しでもその思いと暑さを紛らわそうと髪を軽く結い、深く吸い込んだ煙を吐き出していく。同時に、今朝視た夢を思い返しゆっくりと瞼を閉じた。

――そろそろくる・・か。

今日は都内の任務にあたってそのまま帰宅し、日課であるベランダで一服をするという未来モノ。しかしそうして寛いでいると――


「グッイブニ――ン名前っ!!」


生ぬるい風が頬を掠め、この場の静けさを一掃する声が辺りに響く。瞼を開けると視界に映ったのは銀色の髪、黒に統一された服…そして、本来立つべき場所ではない空中に身を浮かせている男の姿。

『…お疲れ様です、五条さん』

ベランダで一服している時に彼が突然現れることは夢に視ていた。だから特段驚きもなく返事を返すと、彼は至極つまらなさそうに口を尖らせる。

「え〜、なにそのドライな反応。せっかく誰も真似できない登場したってのに、サプライズのし甲斐がないなぁ」
『そうですね、じゃあ次からは別の方でお試しください』

煙と共に言葉を吐き出すと彼は尚も文句を言つつベランダ内へ軽やかに着地した。その様子を見ながら最後の一口を吸い灰皿に煙草を押し付け、部屋へと続く扉を開ける。

『どうぞ。話は中で聞きます』

彼を部屋の中へ誘い、先に足を進める。何を話していたかまでは分からない…が、今日ばかりは彼がここへ来た理由は直ぐに理解できた。

「今日はやけに素直だね、てっきりいつもみたいに追い返されると思ったのに」

『追い返したところで無理矢理上がってくるでしょう。…それに要件は分かっているので』

「へぇ、じゃあなんで来たのか当ててみてよ」

振り向き少しだけ見上げて視線を合わせると、彼はいつものように笑みを浮かべながら私の言葉をじっと待っていた。

『…虎杖くんのこと、ですよね』

その名を口にした途端、血に濡れた虎杖くんの姿が脳裏をよぎり心が更に深く沈んでいく感覚に陥る。

自分が見捨てたというのに…落ち込む資格など、ありはしないのに。

そんな心境とは裏腹に、彼は更に口角をあげ「ご名答」と呟くと、顔を覗き込むように身を屈める。

「で、死ぬ未来を視て何もせず、結果その通り死んでいった悠仁の姿を見てどうだった?」

どうだった――その質問は、容赦なく心を抉った。口を開こうにも答えることが出来ず『…お茶、淹れます』という言葉だけを何とか振り絞り、彼の視線から逃れる様に身体の向きを変える。すると、背後で聞こえた小さな笑い声。


「珍しく落ち込んでるねぇ。慰めてほしい?」

『……別にそんなモノ求めていません。でも貴方が私を責めたいだろうと思ったので部屋に入れた次第です』

「責めないよ、僕だって未来を改変する代償くらい分かってるつもりだしさ。…まぁでも少し怒ってるから、慰めてもやんないけど」

『じゃあ今日は何のために来たんです』

「落ち込む名前を揶揄いに」

『……悪趣味ですね』


ティーポットとカップを取り出していると「あ、僕ココアで」なんて声を背に受ける。それに返事をせず牛乳とココアを取り出し、火にかけながら黙々と準備をする。

――…いっそのこと、責めて欲しかった。

けれど彼は伏黒くん同様何も責める言葉を口にしない。怒っていると言いつつもその口調は普段と変わらず、本当に私の反応を窺っているだけのようだった。

暫く互いに何も話さず沈黙が続く。部屋にはココアを温めている音と、秒針の進む音だけが微かに響く。

「ねぇ、ここどうしたの」

不意に耳に届いた言葉に心臓が小さく跳ねた。思うよりずっと近くで聞こえた声や首筋に触れている指先もそうだが、何より"見られてはまずいもの"だったから。

『……、……任務で』

彼が触れている場所には傷がある。普段は髪を下ろしているから見えないが…10年前のあの日に負った傷が。

「へぇ、もしかしてこの傷を負った時に反転術式が出来るようになった?」
『……』

言えない。何が引き金になって記憶が蘇ってしまうか分からないから、過去に関する話はどんなことがあっても。だからこれを見せ続けるのはまずい…そう思い結んでいた髪を解こうとした、その時。

――ふわりと首筋を掠める何か…柔い感触。

瞬間、右脚を軸にして左脚を思い切り振り上げる。両手はキッチンのへりを持ちしっかり自身の身体を支えて。どうせ無下限があるから当たらない――そう思っていたのに。
何故か彼は私が放った回し蹴りを手で掴んで防いでいた。…そう、"手"で掴んで。

『……無下限は、』
「解いてる」
『なんで』
「僕にも分かんない」
『………はい?』
「なんだろ、僕名前の前では自然と解いちゃうんだよね」
『――、』

その時脳裏によぎったのは、今みたいに黒い布を覆っている姿ではなく。黒いサングラスをかけた――


―「なんでって、触れたい時に直ぐ触れねぇだろ」―


『セクハラで…訴えるって言いましたよね』
「そうなんだけどさぁ、その傷見てたら身体が勝手に動いちゃったんだよ」
『…滅茶苦茶ですね、本当に』

早まる鼓動を落ち着かせようとするも、それは意に反して強くなっていく。彼の行動や言葉に昔を思い出して、顔に熱が集まるのを抑えることができない。

当時、彼はこの傷の事を酷く気にしていた。
何を思ってそういった行動を取っていたかは分からないが、髪を寄せて顕になったそこに唇を寄せられた事が幾度もあった。…稀に強く噛まれたこともあったが。

「勝手に身体が動くって事はやっぱ名前と僕って近しい関係だったってことだよね」
『……』
「でもダメだなぁ、頭に霧がかかってるみたいに思い出せない。結構すごいね、名前の記憶隠蔽術」

返事を返すことなく、出来上がったココアと自分用のハーブティーを持ちダイニングへ向かう。席についてからもココアのカップ片手に何かを思い出そうとしている彼とは裏腹に、未だ煩い位になる鼓動を落ち着かせようとハーブティーを口にした。

虎杖君の件で本当に私を揶揄いに来ただけなら、もう彼を家に上げた理由はなくなった。むしろこれ以上彼と関わっていてもいいことは何一つありはしない。
だからこれを飲み終えたら帰ってもらおう――そう思い口を開いたが、「あ、そうそう」と思い出したような声を上げる彼に切り出すタイミングを失ってしまった。

「君には明日僕に付き合ってもらうよ」
『……それは仕事上で、って意味ですよね?』
「え、何僕とデートした『真面目に』

もう前回の二の舞にはなりたくなくて声を被せて否定をするも、彼は気にする素振りを見せずいつも通りの口調で話し続ける。

「ちゃんと仕事だよ、オシゴト。僕としてはまた名前とデートしたいところなんだけど…あ、何なら今からデートする?」

『私に何かを頼むということは呪霊討伐ではなく生徒関連ですよね。以前言っていた2年の稽古…それとも記憶の隠蔽?』

「スルースキルに磨きがかかってるねぇ名前。どこぞの脱サラ呪術師みたい」

『私と彼を一緒にしないでくださ――』

はた、と気付き言いかけていた口を紡ぐが時すでに遅し。彼の口元がみるみる弧を描いていくのを見て咄嗟に視線を逸らしてしまった。

「彼って?誰のことだと思ったの?」
『……』
「教えてよ、名前の知ってる出戻り脱サラ呪術師」

無言は肯定の意。そう思うも七海以外の呪術師の名前なんて咄嗟に出るはずもなく。これ以上ボロが出る前にさっさと要件を聞いて出て行ってもらおうという気持ちが強くなり、「名前って嘘つけないタイプだよね、言動に出過ぎ」と喉を鳴らすように笑っている彼に視線を戻す。

『…で、明日は何があるんですか』

「ん?それは明日までのお楽しみ。今言ったらサプライズにならないでしょ」

『サプライズってなんです…というか、夢に視たらサプライズも何もないでしょう』

「それでもだよ」

長い足を組み鼻歌を交えながらココアを飲む姿を見て微かに疑問を抱いた。
昨日虎杖くんが死に、その事実を知っていながら隠していた私の前でする態度ではない…明らかに何かを隠している。

そう思うもこれ以上彼は口を割らないだろうし、どうせ明日には解ることだからと小さく溜息を吐いて手元のハーブティーを喉に流し込んだ。

…彼の言うサプライズで、翌朝心臓が止まる程の思いをして起きる事になるなんて思いもせずに。


(2022.5.31)

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