――7月中旬。
梅雨もまだ明けていない為、空は灰色の雲に覆われ今にも降り出しそうな気配を漂わせている。

「名前、こっち済んだから後よろしく」

ベッドに横たわる男性の頭に手を翳していた時、不意に聞こえた声。顔を上げれば、別のベッドに横たわる女性の治療を終えた硝子先輩と視線が交わる。

『分かりました、この人達で最後ですよね』
「ああ。…また別件が来るかもしれないけどな」

自身の右肩を左手で揉みながら小さく息を吐くその姿からは、疲れが滲み出ていて。目の下にある隈もいつもより濃く見えるのは、きっと気のせいではないだろう。

というのも呪術界は今繁忙期。術師や一般人等呪霊にやられた負傷者が硝子先輩の元に運ばれてくる人数も増えている。

それ故上層部からの指示通り、任務が入っていない時はこうして硝子先輩の負担を少しでも減らすこと、そして運ばれてきた一般人の記憶を隠蔽する日々を送っていた。

『それにしても硝子先輩、今までよく一人で対応してましたね』

「私しかいなかったから、そうせざるを得なかっただけだよ。…まぁ名前が最初っから"ソレ"隠してなきゃここまで忙しくはなかったかもな」

『…そこに関しては申し訳なかったと思ってます』

痛いところを突かれ素直に謝罪の言葉を口にする。辞めたかった理由があるにしろ、反転術式を他人に施せる事実を隠して当時先輩や仲間を切り捨てた事に変わりはない。

記憶を隠蔽し男性の頭から手を離すと、後のことは補助監督に任せ硝子先輩と共に処置室を出て医務室へと向かう。

「で、あれからどうなの」

一定のリズムでヒールの音を響かせながら、何の脈絡もなく発せられた言葉。その言葉が何を指しているのか容易に想像がついたが、敢えて『何がですか』と気付いていないフリをした。

「五条だよ。バレただろ記憶消したって。まぁアイツに隠し通す事自体無理があったってことだな。しかも強制的に隣に住めって…」

記憶が戻ってなくても名前に対しての執着は健在か。

そう言って私の返答を待つ硝子先輩から視線を外し、厚い雲に覆われた空を見上げる。

あの日、記憶を消した事を知られ…更には隣の家に住めと言われ。これ以上関わりたくないと拒否する意思を伝えたが、それを彼が許すはずもなく。

彼に知られた時点で、どう足掻いても私に拒否権はないのだと痛感した。

――…それでも。


『…五条さんがいくら付き纏ってきたとしても、先手を打てるのなら回避するだけです』


断片的であるとは言え、私にはその日の未来が視える。以前のように夢に出てきたら避ければいいだけのこと。
それに特級呪術師であり、五条家当主…更には高専の教師も務めている彼のことだ。そもそも忙しすぎて私に構うヒマなんてないだろう。現に隣に住んでいるのにこの2週間、マンションですれ違うこともなければ高専で出会すこともなかった。勿論、夢に視ることも。

だから大丈夫だと、これから先も極力関わりを持たないよう徹底すればいいと思っていた時、隣で硝子先輩が溜息混じりに呟いた。

「まぁあのクズの事だから、そう上手いこといかないだろうけどな」

『…やめてくださいよ、そんな縁起でもないこと――「名前」

不意に後方から名を呼ばれ振り向いた。そこにいたのは夜蛾先生で、その姿を捉えた瞬間"今朝視た事が今から起こるのだ"と瞬時に悟る。

『硝子先輩、すみませんが少し抜けます』

「わかった。夜蛾学長と約束でもしてたのか」

『いいえ…でもこれから・・・・言われるんでしょうけど』

その言葉で先輩も理解したらしく「じゃあ頑張んなよ」と言って医務室へ戻っていき、代わりに夜蛾先生が此方に近付く。

「今からお前に頼みたい事があるんだが…その様子だと視たな?」

『はい、虎杖君達1年生の稽古…ですよね?』

私が今朝視た夢…虎杖君と伏黒君…そして以前にも夢にでてきた女の子に体術の稽古をつけるというもの。

「ああ、そうだ。悟に急な任務が入ってな。出来るか?」

『それは構わないですけど…でも何故私なんですか?』

態々私が行かなくとも高専なら体術の指導者くらい他に居るだろう。そう疑問を抱いていたが、次に発せられた夜蛾先生の言葉で一瞬思考が停止した。


「…悟からのご指名だ。今後お前の手が空いた時は継続して1年に稽古をつけてほしいと」

『……は?』

「"名前に付き纏うって宣言したけど、未来を視て僕を避けるのなんて目に見えてる。だからまず外堀を埋めようと思って"…だそうだ」

『……』

"外堀を埋める"…それはつまり、第三者を介入させて避けられない環境を作ると。生徒の指導者となり継続的に稽古をつければ、否が応でも彼と会う機会が増える。例え夢に視たとしても指導の一環とあれば、その場に彼がいようと回避することは出来なくなる。


『…っ、なんで拒否してくれなかったんですか!?記憶を消した事がバレてるのに、これ以上関わったら本当に思い出して――』

「アイツが納得すると思うか?拒否すれば最悪お前とどんな関係だったか片っ端から調べるぞ。それをされるよりはマシだろう」

『…!それは…っ』

「関わればその分記憶が戻るリスクも増える。…だが言動に気を付けていればそう簡単に思い出す事もない。腹を括れ」

確かに過去の資料を調べられたくはないが、だからって彼を避けたいのもまた事実だ。いくら言動に気を付けていたとしても、関われば関わるほど小さなきっかけも積もっていく。

何とかこの状況を回避しようと再度口を開く…が、それより先に目的の場所に辿り着いてしまった。
夜蛾先生が扉を開け、部屋の中にいた3人分の視線が一気に此方に注がれる。

「お、名前さんじゃん!久しぶりー!!」
「…なんで苗字さんがここに」
「誰よこの人。…ってか呪われてんじゃない」

笑顔で出迎えてくれる子、眉を顰めて訝しげな顔をする子…そして私の呪いを感知し警戒心を抱く子。
見事に三者三様の反応を示す彼らを前にし、抗議の言葉を吐く代わりに溜息を漏らす。…ここまで来てしまえば、先生の言う通り腹を括るしかない。

『…久しぶり、虎杖君と伏黒君…それと初めまして釘崎さん。五条さんの代わりに体術の指導を頼まれた二級術師の苗字名前です』

「名前さんが?え、でもまだ術師に復帰してそんな経ってないのに――「名前の心配より自分達の心配をしろ」

虎杖君が疑問の言葉を発したが、それを夜蛾先生が遮り釘崎さんに前に出るよう促す。

…まずは彼女か。

「ルールは武器、術式、呪力使用不可、体術のみだ。…名前、加減してやれよ」

『分かってます。でも多少怪我させてもいいですよね?すぐ治せますし』

夜蛾先生にそう伝えながら前に出ると、私の言葉に不満を抱いたのか眉を顰めて彼女も一歩足を進める。

「なんっかよく分かんないけど…ナメられてるのだけは理解したわ。言っとくけどこっちだってそれなりに場数踏んでんの――よッ!!」

言い終える間もなく繰り出された足払い。それを避けるも間髪入れずに蹴りが向けられ躱し続ける。

流石に場数を踏んでいるというだけはある…身のこなしも軽いし動きも悪くはない――…が。


『…甘い』


向けられていた拳を受け止め腕を掴み、上体を傾け勢いよく投げ飛ばす。宙に浮いた身体はそのまま地面に叩きつけられ部屋に響いた鈍い音。

「…ッ!」

衝撃に顔を歪めた釘崎さんだったが、すぐに起き上がり体制を立て直して先程同様、間合いを詰めてくる。

しかし彼女の攻撃は全て私に届く事はなく。開始してからものの10分…息を乱しながら地に膝をつく彼女の姿がそこにあり、離れた場所で私達を見ていた夜蛾先生が口を開いた。


「…だから言っただろう、自分たちの心配をしろと。ブランクがあるとはいえ、名前は呪具の扱いや体術なら例え男相手でも引けを取らない。呪力操作にも秀でているしな。…それと呪力量だけで言ったら悟より上だ」

「は!?マジで!?」

「まぁ名前に憑いてる呪いの影響もあるが」

流石にそこまでとは思っていなかったのだろう、虎杖君の質問に夜蛾先生が答え、3人が驚きの表情を此方に向ける。

「…質問なんスけど…名前さんって術師辞めたのいつ?」

『7年前』

「「「はぁ!?」」」

『…不要なおしゃべりはお終い。時間は有限なんだから、口じゃなく体を動かして。次、伏黒君』

あまり自身に関わることは言いたくなかった為、稽古に集中させるべく指名する。夜蛾先生は再度「程々にな」と告げるとそのまま部屋を出ていった。



そうして稽古は続き、釘崎さんと伏黒君に続いて虎杖君と組手をする。2人とは違い先日まで一般人だった彼だが、体術に関して言えば2人の比ではなかった。ここに呪力が乗れば流石にキツいかもしれない。

…とは言っても、負けることはなかったけれど。

「マジでやばい、一本も取れねぇとか…」

畳の上で寝そべりながら、視線だけを此方に向ける虎杖君。他の2人も息を上げてはいるが、今の稽古で負った怪我は既に私が治していた為問題はないだろう。

「名前さん、なんでそんな強いの?」

『私の術式は戦闘には不向きなの。だから呪具や体術で補う他なかった。それだけのことだよ』

「いや、それ以前に7年もブランクあんのにそんな動けることが疑問なんだけど…」

それは夜蛾先生と会った時に定期的に稽古をつけてもらっていたから――なんて、口が裂けても言えない。

『…虎杖君はいいとして、伏黒君と釘崎さんはもう少し近戦に強くならないとね。術式を頼りにするのはいいけど、自分自身も鍛えて損はないから。じゃあ今日はここまで』

そう言って指導を終えそのまま去ろうとした。…が、背後から名を呼ばれ足を止め振り向く。そこには伏黒君がバツの悪そうな顔をして佇んでいて、どこか様子がおかしいことに疑問を抱く。

『なに?伏黒君』
「あー、その…」

やはり歯切れの悪い返事。再度どうしたのかと問いかけようとしたが、彼の代わりに虎杖君が言葉を紡いだ。

「名前さん、俺達五条先生から霊鬼のこと聞いたんだ。で、最初名前さんに対して結構不信感抱いてたから、コイツなりに反省してんの」

「ば…っ、虎杖余計なこと言うんじゃねぇよ!!」

「なんだよ、謝るならさっさと謝ればいいだろ?」

虎杖君の言葉に取り乱す伏黒君。その様子を見て、そんな些細な事気にしなくていいのにと少しだけ頬が緩んでしまう。

『大丈夫、気にしてないから。それに君が私に抱いたその感情は正しいことだと思うよ』

そう言って彼の頭を少しだけ撫でると、驚いたように目を見開いて途端に視線を逸らされてしまった。

素直になれず、中々謝罪の言葉を口にできない…それでも不器用なりに態度で示してくれる伏黒君は、何処となく昔の彼を思い出させて。

「…ねぇ、私だけ理解できてないんだけど。霊鬼ってなんなのよ」

伏黒君から手を離し、何も知らされていない釘崎さんのその疑問には『2人から聞いて』とだけ答えて部屋を後にした。



(2021.7.31)

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