…ギシリと、胸が軋む。
名前を呼ばれる度に、その姿を見る度に。
奥底にしまっていたモノが鈍い音を立てて痛みを引き起こす。
あの時、一番大事な記憶を消した。
あの時、一番大切なぬくもりを手放した。
そうした事を間違っていたとは思わないし、後悔もない。……それなのに。
尚も軋む胸を抑えながら広い敷地内を只管歩き、漸く高専唯一の出入り口である大きな門が見え始めた――その時、不意に視界の端に捉えた人物につい足を止めてしまった。
今朝の夢では視なかった、その人物。
サングラスを掛けスーツを身に纏い、真っ直ぐ此方に向かってくるその姿は高専時代からだいぶ変わっていて。それでもすぐに分かったのは、陽に照らされている金色のせいだろう。
『七海……』
「お久しぶりです、苗字さん」
目の前で立ち止まった男…七海は、私と同じで高専卒業と同時に呪術師を辞めたはず。けれどこうして此処にいるということは―――
『復帰したの…?』
「ええ、数年前に」
予想通りの言葉。けれど信じられなかった。
"呪術師はクソだ"、そう言ってこの世界を否定したあの七海が、どうしてまた戻ってきたのか。
その疑問をそのまま問いかけようと口を開く…が、先に口を割ったのは七海だった。
「学長から先程聞きましたが…反転術式を他人に施せるようですね。しかも習得したのは10年前のあの日だと」
『……だったらなに?』
「いえ、これで長年疑問に思っていた事が解けたと思いまして」
淡々と話しながらサングラスを外し、真っ直ぐこちらを見据える七海。直接交わる視線と次に発せられる言葉を予想し、少しだけ鼓動の音が早まる。
「あの日私は致命傷を負っていた…意識も混濁し、いつ死んでもおかしくない状況だったはず。しかし高専で目覚めて家入さんに話を聞いたら、そのような傷はなかったと。その事がずっと引っかかっていたんです」
『………』
そう…あの日七海は致命傷を受けていた。
けれど目の前で赤に染まる光景と最期に受け取った"
…七海だけは死なせない、絶対に助けなければと。
「なぜ五条さんの記憶を消したんですか」
唐突に投げかけられた質問に、心臓が小さく跳ねる。…けれどそれを話すつもりはない。理由を知る人は夜蛾先生だけで十分だ。
『……七海には関係ない』
「関係あるかどうかは私が決めることです。…貴女が隠し事をする時、決まって霊鬼が絡んでいる。呪術師を辞めたことや五条さんの記憶を消した原因が、もしあの日何かを視た所為だと言うのなら…あの場に居た私にも責任はあります」
『………』
「苗字さん、一体何を『意味なんてない』
『…仮に私が何かを視ていたとしても、それを七海が知っても意味なんてない』
これ以上の話は不要だ。その思いを込めてそう伝えると七海に背を向け歩き出した。
(…お願いだから、もう詮索しないで)
こんな思いをするのは私だけでいい。
こんな…"未来"という名の濁流に飲まれるのは、私だけで―――
「まだ貴女は……」
小さな溜息と共に吐き出された言葉を聞き、思わず足を止め振り向く。
『……一々なに「名前さん」
「貴女はまだ"そこ"から動けないんですか……10年前のあの日から」
ドクンと心臓が大きく脈を打つ。それと同時に蘇る、あの日の光景。
――「名前…____」――
「後悔し続けて口を閉ざしても、状況は変わらないでしょう。それに何度も言ったはずです、あれは貴女のせいじゃ―――」
ドン…ッと鈍い音が響き渡る。拳を七海の胸に押し当て、それ以上喋るなと無言の圧をかける。
……慰められたって過去が変わるわけじゃない。
そのぬるく温かいモノに包まれても、後に残るのは後悔と虚しさだけだ。
「…名前さん『二度と、』
『…二度とその話はしないで。それと…次私の名前呼んだら許さないから』
七海が私を下の名で呼んでいたら、彼が何かしら勘付いてしまう可能性が高い。そう釘を刺して、今度こそ高専を出る為足を進めた。
血塗られた過去、最後に交わした
そして……あの日視た
全て心の内に留めて、蓋をして。ただそこに向かって一人で歩き続けるだけだ。
……来たる未来へ。
(2021.4.28)