03

 授業がいっぱいいっぱい五限目まで入っていた日の帰り道、学校から何駅かのわりと近い場所にひとり暮らしをしているわたしは、街灯の少ない夜道を歩いていた。
 バイト代と親からの仕送りで生計を立てているのだが、今月、十二月がやれ忘年会だの納会だのクリスマス会だのとなにかと物入りなのに加え来月も新年会だのに誘われたりして何だかんだと生活費を切り詰めないと厳しい状況にある。通帳の残高を頭に思い浮かべながらため息をついて帰路を急ぐ。
 ふと、立ち止まって振り返る。誰もいない。ここは人通りの少ない道なので、誰かいるほうが珍しい。けれど、たしかに足音がしたような気がして振り返ったのだが。

「……?」

 再び歩き出す。自分の靴音に加えて、どうももうひとつ足音が反響しているような気がする。なんとなく速足になると、その足音も速足になる。
 気味が悪くなって、もう振り返らずに家まで駆け抜けた。アパートに着いて、急いで鍵を取り出して慌ててドアを開けて身体を中に滑り込ませる。鍵を内側からかけて、ドアに背中からもたれかかってため息をつく。
 冷たい室内の空気は、外と同じ温度で少し不安だ。電気をつけて暖房のスイッチを入れる。稼働音とともに生ぬるい空気が部屋を満たしていく。
 コートを脱いでハンガーに掛け、楽な服装に着替えてお湯を沸かす。近所のスーパーで安売りしていた粉末スープを一包マグカップにあけて、お湯をそそいだ。スプーンで掻き混ぜて両手でカップを持って暖を取りながらテーブルの前に座り込む。
 気のせい、だったのだろうか。自分の足音が反響していたのだろうか。いやしかし、自分の靴の踵とは明らかに違う質感だった。
 膝を抱え込んでスープをすすりながら、無意識のうちに眉が寄っていた。

「足音?」

 寿が素っ頓狂な声を上げる。カフェテリア全体に響くのではと危惧するほど、その声は大きかった。

「声大きいよ」
「ああ、ワリ。昨日の帰り道?」
「うん……」

 寿の恋人は今トイレに立っている。その隙を縫って親しい男友達に相談してみたはいいが、どうやらこれは本気には取られていないようだ。案の定、寿は剃り込んだ眉を寄せて鼻で笑った。

「人通りが少ないったって、多英だって通ってんだからほかの人が通らない確証はないだろ」
「そうなんだけど」
「気のせいだよ。あんま神経質になると、十円ハゲできるぞ」
「うるさい」

 寿の言うことは正論だ。姿が見えなかっただけで、遠くのほうを歩いていた人の足音がわたしのところまで響いていたと考えるのが妥当だろう。

「なんか、昨日疲れてたのかな、変に気になっちゃって」
「何の話?」

 寿の恋人である繭香が、彼の背後からしなだれかかる。明るい茶色に染めてパーマをあてている髪の毛が寿の肩の辺りから零れ落ちた。それを軽くあしらいながら席に座るよう促し、寿がぼやく。

「なんか、昨日帰り道で後つけられたんだって」
「え? やだ、何それ」
「多英の勘違いだよ」
「そうなの?」

 ブラウンのマスカラで縁取った瞳をこちらに向けて、繭香は何度かまばたきした。わたしは曖昧に頷く。

「そう、なんだと思う……」
「なんか多英、踏んだり蹴ったり……あ、ごめん……」

 踏んだり蹴ったり、という言葉を自分で失言だと気づいたらしく、彼女が口をつぐんだ。希世を複数人で取り囲んでゲロらせた、という話を寿から聞いていたので、男友達の恋人である可愛い女の子、という印象から完全に腹黒い女のレッテルをわたしの中では貼られていることを知る由もない繭香に、仕方なしに笑ってみせる。

「気にしなくていいよ。踏んだり蹴ったりだもん」
「希世って、可愛い顔してけっこうしたたかだよねえ」

 本人が気にしなくていいと言った途端にその話題を振ってくる。わたしのように浅い表面上だけの友達付き合いならまだしも、性格にだいぶ難のある彼女と、恋人でいられる寿の神経を疑ってしまう。
 だって恋人って、表も裏も見せないとやっていられない。
 左手で頬杖をついて注文したケーキの苺をフォークでつつく。コーティングされてつやつや輝く丸い苺を刺して口に運ぶと、それを見て繭香が呟いた。

「麻生先輩も、何も彼女の親友に手出さなくてもいいのにね」

 麻生先輩、というのは元恋人のことだ。同じ学科の一学年上で、いつも必ず服のどこかしらに目立つ色合いのものが混ざっていたり、服のデザインそのものが派手だったりするので、有名である。少なくともわたしの友人や知り合いは知っている。
 付き合うようになったきっかけは、いつも授業で座る席がとなり合っていたわたしが、一度授業を欠席した彼に課題の範囲を教えたお礼にカフェテリアのコーヒーを奢ってもらったことだった。向かい合って座って初めてまともに話をして、笑うと可愛いんだ、という感想が恋になるまで時間はそんなにかからなかったように思う。
 今となってはもう、どうでもいいことだ。わたしの中ではすでに、自分の尻も自分で拭けないような情けない男に成り下がっている。

「わたしは、綺麗事かもしれないけど、正直希世が心配」
「え?」
「浮気癖って直らないって言うし、希世が泣かされないか、心配なの」
「多英はほんと甘いな」
「栄の言う通り」

 目の前のカップルに呆れたような声をかけられ、きょとんとしてケーキを見下ろしていた視線を上向ける。

「麻生先輩も麻生先輩だけど、希世も希世なんだよ。裏切り者の肩持つなよ」
「そうそう。どっちから誘ったとか分かんないけど、希世は親友の彼氏って知っててこそこそやることやってたんだから、それで泣かされても、因果応報だよね」

 寿の口から飛び出した、裏切り者、というフレーズにショックを受ける。自分で思っているより、他人に言われたほうが実感がわいてきて、衝撃的な響きに聞こえた。あの可愛い、ふわふわとケーキのスポンジみたいに甘ったるく笑う希世は、裏切り者なのだ。
 そして、案外繭香の希世に対する当たりがきついのもちょっと驚いた。でも、考えてみれば繭香からすればわたしが絶対的な被害者で、希世は裏切り者の加害者なのだ。当事者間の複雑な事情や感情を除けば、そこにあるのは敵意でも仕方ないのかもしれない。それにしても、繭香の色っぽい唇から、因果応報、などという含みの多い四字熟語が出てくるのは、ちょっと落ち着かない気分になってしまう。椅子に収めていたお尻をもぞもぞと動かす。

「……そうなのかな」
「そうそう」

 ケーキの最後のひとかけらを口に入れ、さまざまな思惑と一緒に飲み込んで、わたしは立ち上がる。

「じゃあ、わたし次授業取ってるから」
「うん。またな」
「何かあったらいつでも相談して!」

 相談した途端次から次へと拡散されるんだろうが。そう心の中でため息まじりに毒づいて、わたしは笑ってトレイを持って返却口へ向かう。トレイを返却口に置いてカフェテリアを出る。
 寿とは、高校が同じだった。とは言え、お互い顔をちょっと知っている程度でクラスもかぶらず交流もほとんどなかったのだが、顔見知りではあったため、同じ大学の同じ学科に進んだのをきっかけに仲良くなった。ちなみに、わたしは高校時代から、縁起のよさそうな名前、と思っていた。
 教室までの道のりを歩きながら、昨日の足音のことを寿に相談してみてよかった、と思う。気のせいだと、誰かに笑い飛ばしてほしかったのかもしれない。繭香の言葉を借りるなら、もし気のせいでないならほんとうに、踏んだり蹴ったりだからだ。
 教室に着いて席を取り、先生が入ってくるのを準備を済ませて待ちながら携帯を取り出す。不在着信が三件入っていて、それはすべて非通知からだった。眉を寄せて、無視を決め込む。
 眠たくないのに、授業を聞いていると瞼が重たくなってくる。それを耐えて、今日取っている授業をすべてこなしバイトへ向かう。その道すがら、なんとなく視線を感じた気がして振り返る。それなりに大きな街の人混みの中で、わたしに注意を向けている人などいないことは分かっていた。もしかしたら、誰かが通りすがりにわたしをちらりと見ていったのが気になったのかもしれないと納得してまた歩を進める。
 居酒屋のバイトは、週末はやはり混む。次から次へと注文を受けては厨房に通して酒や料理を運んでいるうちに、シフトの時間は過ぎる。目の回るような忙しさを抜けて、ロッカールームで一息ついてコートを着込んで帰り道を急ぐ。日付を跨いでいる。
 最寄駅に着いてアパートまでの道のりを歩いていると、昨日と同じポイントでやはり靴音がした。はっとして振り返る。けれど、見晴らしの悪いその道はやはり誰の姿もない。けれど、気持ちのよいものではないので、昨日同様走るようにしてアパートに転がり込んでドアを開け鍵を閉めた。

「…………」

 気のせいではない、のかもしれない。明日、寿を捕まえられたらもう一度ちゃんと相談してみよう。そう思いシャワーを浴びて、そのまま眠りについた。
 とは言え、寿だっていつも暇で構内をうろついているわけではない。今日はバイトらしく、メッセージを送っても返ってこない。ちぇっと思いながら自販機のほうに向かえば、先客がいた。