04

「あ、こんにちは」
「……? ああ、多英さん」

 細身の黒いトレンチコートにマフラーをぐるぐる巻きにした姿の和成さんが、自販機の前で何を買おうか真剣そのものの表情で迷っていたのだ。声をかけたのがわたしだと気づくと、彼はにっこり笑ってくれた。

「こんにちは。偶然ですね」
「まあ、自販機ここにしかないですからね」
「駅前のコンビニには行かれないんですか?」
「……遠いですよ」

 わたしのため息混じりの愚痴っぽい呟きに吹き出した彼の細くて白い指が自販機のボタンの上をさまよって、それからホットコーヒーを押した。

「実は徹夜明けなんです」
「ああ……それでコーヒー?」
「冷たい水のほうが目が覚めるかなって思ったんですけど、俺、ペットボトルの水、というかミネラルウォーター全般が苦手で」

 熱い缶を両手で転がしながら、彼は物憂げに眉をひそめた。

「ミネラルウォーターが苦手なら、何を飲むんですか?」
「水道水ですかね。そもそもあんまり、ただの水って飲まないです」

 清く正しく霞だけを食って生きているわけではないことくらい分かってはいるものの、何となく不思議な感じがしてしまう。

「コーヒー、好きなんですよ」
「へえ……」

 白樺の指の中で揉まれる缶に目をやり、彼に感じていた違和感が何なのか、わたしはそこでようやく気がついた。

「気になっていたんですけど」
「はい?」
「和成さん、きっとわたしより年上だと思うんですが、どうして敬語なんでしょう」

 品のいい顔立ちなのでそこまで奇妙には思わなかったけれど、やはり違和感は拭えない。年上の人に敬語を使われるのは慣れないし、彼がわたしに丁寧に接する理由なんかないと思ったし。
 指摘すると、和成さんはぽかんとしたあとで少しばつの悪そうな笑みを浮かべた。

「すみません、気を悪くしました?」
「あっ、いえ、そういうんじゃなくて」
「多英さんくらいの年の女性とあまり交流がないので、どれくらい距離を取っていいのか測りかねるんです」

 穏やかなテノールが少し上擦る。焦っているのかも、と思い顔を覗き込む。真白な頬は相変わらずで、鼻の頭が赤い。

「それに、多英さんはなんだか格好いい女性って感じですし、ちょっと緊張しますね」
「え?」
「あはは、なんか、潔さそうで、格好いいです」

 そんなふうに言ってもらえるようなできた人間ではないし、不意打ちで褒められて少し面食らう。まばたきを数度すると、含み笑いをした彼がコーヒーの缶を自販機の横のゴミ箱の上に置き、小銭入れを取り出す。四角い、ディープグリーンのこれまた品のよさそうなコインケース。

「何飲みます? せっかくですし、奢りますよ」
「あ、え、いいですよ! 自分で出します!」
「まあまあ。ミルクセーキでも飲みます?」

 わたしが答えるより先に自販機に小銭を飲ませてミルクセーキのボタンを押してしまった彼に、言葉を失う。落ちてきたミルクセーキの缶を差し出され、受け取らないわけにもいかないので手を出す。ところでどうしてわたしがミルクセーキが好きだと分かったのだろうか。

「熱いんで、気をつけてください」
「……ありがとうございます」
「なんだか不満そうですね?」

 何もかもを分かっていそうなしたり顔で見つめられ、思わず唇を尖らせる。破顔して、けたけたと笑いだした。

「多英さん、可愛い」
「……は? やめてください、そういうこと、言うの」
「照れてるんですね。ふふ」

 これが年上の余裕というやつなのだろうか、和成さんはわたしの文句にまるで臆さず微笑ましげに口を歪ませた。それから、コートのポケットから携帯を取り出して何か操作している。

「じゃあ、俺に連絡先教えてください」
「え?」
「それで、ミルクセーキのことはチャラにしましょう」

 つまりわたしの連絡先は百円ちょっとということだ。という皮肉が喉元まできたが、自分がそんな大それた人間ではないことくらい分かっていたので、開きかけた口を閉じる代わりに鞄を探る。
 それにしても、彼はわたしの連絡先なんか聞いて何をしたいのだろうか。

「わたしの連絡先聞いて、どうするんですか?」
「どうするって?」

 のほほんと聞き返されて、言葉に詰まる。どう言おうか数秒悩んでいるうちに、和成さんは何か心得たように口をおの字に開いた。

「これはれっきとしたナンパですよ」
「へ?」
「あはは」

 ナンパという行為と和成さんの儚げな印象がどうも合致せずに、馬鹿みたいに聞き返してしまう。手の中で携帯をもてあそびながら、彼はくすくすと笑みを滲ませる。

「俺だって可愛い女の子がいたら、連絡先くらい聞きますよ」
「かわ……」
「それで、たまには電話してその声を聞いて、どんな顔で通話してるのか想像して満足するんです」

 ちょっと生々しい。なんだか気まずくなって、少しぬるくなったミルクセーキのプルタブを起こして飲み口に唇をつけると、和成さんが少し背中を曲げて覗き込んでくる。

「駄目ですかね?」
「……だ、めじゃないですけど……」

 携帯の電話番号を交換して、彼はそれこそ満足げに画面を見つめた。いたたまれなくなり、わたしはそそくさと彼の番号が登録された携帯を鞄にしまい込んだ。

「メッセージも、個性が出ていいですけど、俺は文章より肉声派なので」
「は、はあ」

 肉声、という言葉が一瞬すっと脳内で漢字変換されずに戸惑う。ほんとうに彼は電話をしてくるのか、それともこうして知り合って連絡先を儀礼的に聞くまでが彼にとっての様式美なのか、分からない。
 その携帯にはどれくらいナンパした女の子の連絡先が登録されているのだろう。なんとなくそんなことを考えて、もちろんこうして声をかけられるのがわたしだけではないと分かっているのだけれど、わずかばかりつまらない気持ちになる。
 このあと授業が中途半端に一コマ空いているわたしは、急いでこの場を去る必要もないのだけれどなんとなくいづらくて、どうしようか、と思っていると彼があっと声を上げた。

「コーヒー、忘れてた」
「あ……」

 ゴミ箱の上にぽつんと置かれた缶コーヒーは、冷気に当たってすっかり温度が下がってしまったようだ。握って、和成さんが残念そうにため息をつく。

「俺、冷めた缶コーヒーって駄目なんですよね」
「分かります……」

 それでも、そのまま捨てるのは忍びないのか彼はプルタブを起こしてぐいっとあおった。細い睫毛が震えて、目尻が歪む。
 一気に飲むのをじっと見ていると、中身を飲み干した彼は缶をゴミ箱に捨てて照れたように笑う。

「あまり見れたものではないと思うんですが」
「……和成さんって、イケメンとか男前って言うより、美人ですよね」
「へ?」

 思ったままを口にして、薄幸そうに見えるのは美人寄りだからなのか、とは言えそこまで整った顔立ちというわけでもないが。と納得していると、彼の頬が不意に持ち上がる。

「よく言われますよ、美人薄命って」

 地雷を踏み抜いてしまったようだ。そのように言われるのが好きではないらしく、顔は皮肉に歪められている。

「すみません……悪く言ったつもりじゃないんです」

 俯くと、彼のきれいに磨かれた革靴に目が行った。スキニーのデニムに包まれた足はほんとうにびっくりするほど細くて、こんな足でこの長身を支えているのが信じられないと思う。

「冗談です」
「……」
「さて。そろそろ戻らないと」

 顔を上げる。やわらかく笑っている和成さんは、ほどけかけていたマフラーを軽くととのえて伸びをする。それから、一言も発せられないでいるわたしを見て小首を傾げた。

「多英さん、次授業ないんですか?」
「あ、はい。一コマ空いてて……」
「お茶でも……って言いたいところなんですが、俺は今から教授の犬にならなければならないし……」
「い、いえ。お気になさらず」
「また次の機会に。カフェテリアでお話でもしましょうね」

 小刻みに何度も頷くと、彼はじゃあと手を振って十二号館のほうに向かって歩いていく。その背中を見つめていると、途中で振り返られて、慌てておじぎをした。顔を上げる。もうすでに、彼の姿は遠くなっていた。
 次の機会なんて、あるのか。
 その場に取り残されたわたしは呆然と、惰性で冷めたミルクセーキを飲んだ。