02

「すみません、余計なことを聞きましたね」
「いいえ……ハンカチ、ほんとうにありがとうございました」

 和成さんのハンカチをくれた気の回し方や厚意は、うれしかったのだと思う。自分でも、泣きそうな顔をしている自覚なんてなかったし、寿にも、寒そう、と言われただけだったので。でももしかしたら、わたしは泣きたかったのかもしれないし、それを彼は見抜いたのかもしれない。
 こんなにあっさり、わたしの中で整理がついてしまう出来事だとはとても思えなかったのに。わたしはすっかり、恋人と親友を同時に失った痛みを受け入れてしまっている。それは、半ば信じられないという気持ちのせいか、それとももしかしたらわたしの中でも話題の鮮度が落ちかけているのかもしれない。それを思うとわずか怖ろしい気持ちにはなる。
 わたしの茶碗の中身が空になっているのに気づいた彼が、新たにそそいでくれるらしく準備をしている。

「あの、あんまり長居するとご迷惑じゃ……」
「ああ。いいんです、今教授アメリカ行ってていないので」
「アメリカ」
「ええ、それまでにそこの資料全部データ化しておけという指令が出てますけど、ひとりだと暇なんです」

 そこの資料、と言って彼が指差したのは、膨大な量の積み上げられたファイルたちだった。鈴井教授がどのくらいの期間アメリカに滞在しているのかはいざ知らず、この量は果たして一生かけて終わるものなんだろうか、そう思わせるほどの積み上がりようだった。
 暇なんです、とのんきに言った彼は、わたしの茶碗をさっと取って、お茶やコーヒーなどが置いてあるスペースに埋もれているポットのほうに行ってしまう。
 すごくいい茶葉を使っているらしいのに、あんなポットで沸かしたお湯を使っていたら、なんだかばちが当たりそう、と思った。

「あの、和成さんは……」
「はい? あっ、うわあっ」
「……」

 わたしの問いかけに振り向いたのが、運の尽きだった。彼はポットのボタンを長く押しすぎて、急須からお湯をあふれさせてしまったのだ。茶漉しが倒れてお湯でしんなりした茶葉があふれ、辺りは薄い緑色のお湯でびしょびしょになってしまった。

「す、すみません、すぐ片づけますね……」

 この研究室の勝手が分からない身としては、下手に手伝うこともできない。おろおろしながら和成さんが片づけるのを見守っているしかできない。そして、彼の手際の悪さにやきもきしてしまう。多量の水分を拭くときに雑巾を動かしてしまうと意味がないのに。

「あの、叩くように、ぽんぽんってすると水、吸いますよ」
「え? あ、ほんとうだ」

 眠たくて腰が重いのも相まって立ち上がることはできなかったが、一応それだけ伝える。今初めて雑巾の扱いを知ったかのような手つきに、この人は大丈夫なんだろうか、と一抹の心配が胸を突いた。
 ようやくお湯を拭き取り、彼は改めてわたしにお茶を淹れてくれる。それをおごそかに受け取りながら、何の話をしていたのだっけ、と思いを巡らせる。

「えっと……何の話してたんでしたっけ?」

 彼も同じだったようで、そう聞かれてわたしは首を傾げる。困ったように髪の毛を耳に掛け、そのしぐさを今日一日で何度見ただろう、と思った。

「髪の毛、邪魔じゃないですか?」
「はは、邪魔ですけど、切りに行く時間がなくて」

 前髪もすっかり目元にかかって、半ばセンター分けになっているつやのある黒髪をつまみ、彼は苦笑いする。前髪の隙間から見える額はきっちりと四角くて、几帳面で賢そうな印象を与える。

「なんだか眠たそうですね?」
「あ、えっと、その……昨日遅くまでレポートをしていて……」

 目がとろんとしてきたのをあっさり指摘され、わたしは俯いて彼にならい髪の毛を耳に掛ける。肩につく程度のミディアムボブは染めたことがない真っ黒な髪で、けれど少し癖毛なせいもあるのか彼の髪のようなつやはない。何か手入れの方法に問題があるんだろうか。
 微笑ましげに頬を持ち上げた和成さんが、そうだ、と不意に思い出したように立ち上がる。

「笹川先生に、頼まれごとがあったんだ。多英さん、このあと時間あります?」
「え? まあ、今日は夜からバイトですけど……」

 ちらりと時計を見る。まだ、昼食のピークを越えたくらいの時間だ。

「もしよければ、お留守番をしていてほしいんですけども」
「留守番?」

 その辺に雑多に積まれている資料をかき集めながら、彼がぼやく。

「鍵をかけて行くほどの時間空けるつもりはないですし、もし人が来たらその旨伝えていただければ」
「でも……」
「寝ていていいですよ、奥に教授の仮眠スペースがありますので」

 白樺の枝の指が示した先には、ソファがあった。クッションと毛布も完備で、なるほど人ひとりくらいは寝られそうである。
 ためらいがちに彼を見ると、拝むように手を合わせられた。

「すみません、誰も来ないとは思うんですが、念のため!」
「……」

 しぶしぶ、頷く。彼の表情が気が抜けたように綻び、かき集めた資料の山を抱え込んで部屋を出ようとする。

「じゃあ、すぐ戻りますので、寝ていて大丈夫なので……あっ」
「……ドア、開けます」
「すみません……」

 両手を塞がれて見事に部屋から出られなくなっている彼を助けて見送り、わたしは残っていたぬるくなったお茶をすすって、ちらりとソファのほうを見る。
 しぶしぶ引き受けたものの、寝ていていい、というのは案外魅力的な提案だ。バイトがあるのに家に戻るのもなんだし、今日はもう授業もなくてどこかで時間を潰すしかないと思っていたからだ。そんな時間を寝て過ごせるなんて願ってもないことだった、実は。
 とは言えほんとうに寝たら、和成さんに、うわこいつ社交辞令真に受けて寝てやがる、とか思われそうだ。
 眠たくて回らない思考で、頭上に輪っかの蛍光灯を乗せた天使と手に大きなフォークのようなものを持った悪魔が議論している。そこに日当たりのいいソファが誘惑というかたちでしゃしゃり出てきて悪魔に加勢した。
 ちょっと、横になるだけ。
 鞄を持ち上げて、ソファの手前にあったテーブルの上に置く。それから靴を脱いでソファに横になり、クッションを枕に毛布をかぶる。日当たりがいいせいか、クッションも毛布も日なたの匂いがする。先ほどから眠たかったのもあってか、睡魔はすぐにやってきた。
 うとうとと意識を眠りのふちに引きずられながら、かすかなドアの開閉音を聞く。和成さんが戻ってきたのだ、そう思い慌てて瞼を上げようとするも、もうすっかり、わたしはまどろみに足を絡め取られていた。
 眠るのが好きだ。嫌いな人間はあまりいない行為だとは思うが、わたしはことさら眠るのが好きだ。大学の授業が一時間目から入っているときなど、わたしは家を出る時間から逆算してもゆうに一時間は余裕のある時間にアラームを設定し、起きて時間を確認し、大丈夫まだ眠れる、という安心感を得ているくらいだ。つまり二度寝がしたいのである。その方法で痛い目を見たことは何度かある。
 夢はあまりみない。いや、たぶん人並みにみてはいるのだろうけれど、覚えていない。みた夢の内容を覚えていないほうが睡眠としては理想的、とどこかで聞いたことがあるような気がする。
 ふと、鼻腔をコーヒーのいい香りがくすぐる。つられて目を開ける。

「……」

 耳に届いたのは、パソコンのキーボードが連打されている音だった。さだまらない意識で起き上がりソファの後ろに位置するデスクを見ると、眼鏡をかけた和成さんがモニタをじっと見つめていた。ふと、その視線がわたしのほうに流れてくる。わたしが起きているのに気づくと、彼はすぐにマウスとキーボードから手を離してにっこり笑った。

「おはようございます」
「おはようございます……今何時……?」
「五時過ぎです。バイトの時間は大丈夫ですか? 起こそうと思ったんですけど、ぐっすり眠っていたので忍びなくて」
「ま、まだ大丈夫です、すみません、爆睡しちゃって」

 眼鏡を外してこちらに近づいてくる和成さんはコーヒーの重たい匂いをまとっていた。
 まだ大丈夫、と言ったが、五時、と思い直してけっこう慌てなければいけない時間であることに気づいて急いで立ち上がって鞄とコートを手に取る。

「長々とお邪魔しました」
「いいえ。話相手ができてうれしかったです」

 柔和な表情でそう言われ、ここに来て半分以上の時間をわたしは寝て過ごしていたのだが、と情けなく思うものの、そう言ってもらえたなら少しは救われるので、黙っておく。コートを着込みおじぎをした。

「ごちそうさまでした、美味しかったです」
「またいつでも来てくださいね」
「はあ……」
「じゃあ、バイトがんばって」

 細い腕がドアを開ける。わたしが立ち去るまで見送ってくれるようで、もう一度おじぎをして気持ち急いでドアをくぐり廊下を駆ける。階段に差し掛かる曲がり角のところで振り返れば、彼はまだドアのところに立ち尽くしていて、わたしが振り向いたのに反応して笑顔でゆらりと手を振った。三度目のおじぎを返し、階段を駆け下りた。