喧騒の隙間を縫って、りんと響くような涼しげな声がした。
「ご連絡ありがとうございます」
「あ、いえいえ」
間仕切りがあるだけの個室と呼べるかどうかもあやしい仕組みの居酒屋だ。同じ学科の仲良し数名で飲みに来ている。雑然とした背景に、その細い身体はどうにも溶け込まない。俺のとなりで潰れている多英を見て、彼はふと眉をひそめた。
「多英、起きろ。迎え来たぞ」
「んん〜」
肩を揺するも、ぼんやりとしたうめき声が返ってくるだけで、まるで反応は鈍い。平野さんに取り繕うように笑みを浮かべると、彼はあからさまに不愉快そうな顔をして席に座る面々を見回し、尖った声を出した。
「誰がこんなになるまで飲ませたんです?」
彼のせいじゃないし、もとはと言えば多英のせいなんだが、その視線と声色に、気温が一度二度ほど下がった気がした。平野さんもう少し空気読んでくれ。ここは楽しい同期飲みの席なんだ。
「いや、二杯でこうなって……っていうか、テンション上がってやたらウザ絡みしてきたと思ったら突然電池切れたみたいにこうなって……」
「そうですか」
「すいません、すぐ起こします」
そう、多英ときたら、甘いカクテルを一杯と半分飲んだだけですぐ酔っ払って信じられないくらいしつこく絡んできたと思えば、突然テーブルに突っ伏してぐずぐずしだすものだから。しかたなく、多英の携帯の着信履歴の一番上にあった平野さんの番号をタップして呼び出しをかけたのだ。
お前彼氏にこんな情けないところ見られていいのかよ。そんな思いもあり。
なんだか身内の恥を平野さんに晒しているような恥ずかしい気持ちもあり。
「たーえー!」
「も〜、飲めない〜」
「帰るんだよ! 平野さん迎えに来てくれたから!」
乱暴に身体を揺すっていると、ふと俺の頭上に影が差した。顔を上げると、平野さんが座席に割り込んできている。相当ご立腹な顔をしているように見える。もともとの表情、地顔は笑っているようなイメージだったけれど、その薄茶色の垂れ目の視線は今ならレーザービームになり得る。硬い金属すら容易にまっぷたつにできそうだ。細い木の枝のような指が多英の肩にかけられた。
「……多英さん、帰りましょう」
「んん」
これは、あれじゃないのか、あとで多英がこってりねっとり説教されるパターンなんじゃないのか。平野さんけっこうねちねち言いそうだし……。
「あの、あんまり多英に怒らないで……」
「怒ってませんよ」
いや、嘘でしょ。
「多英さんには一ミリも怒ってません」
「……」
あれ、なんで俺睨まれてんの。多英には、って、じゃあ誰に怒ってるの。だって多英が勝手に自分で飲んで潰れているのに。
「んー」
「多英さん、さすがに俺あなたを担いで帰れないんで、起きてください」
そんな子守唄みたいな声で多英が起きるとは思えないんだが。
とは言え、平野さんが根気よく声をかけて肩を揺すったおかげか、それとも酒が抜けてきたのか、多英はようやくむくりと顔を上げた。
「……吐きそう」
「トイレどこです?」
「突き当たり右っす……」
ふらふらしている多英を支えてトイレに向かった細い背中を見ながら、俺は、果たして繭香が仮に吐いたら受け入れられるだろうか、とそんなことを考えた。たしかこの居酒屋のトイレは男女共用と書いてあったような気がするので、平野さんが多英の介抱をする可能性もじゅうぶんにある。俺は、繭香の吐瀉物をまともに処理できるだろうか。
たぶん答えは否。いや……でも繭香ならいけるかな。いや待て待てやっぱり無理。いやいや、彼女の吐いたものも処理できずに何が男か……。いや待って。
ぐるぐる考えていると、ちょっとすっきりした顔をしているものの未だふにゃふにゃの多英と、平野さんが席に戻ってくる。お前吐いたな。
「多英さんに、後日お金を払うように言っておくので、この場は立て替えていただいても?」
「あ、はい」
「あと、寿くん、でしたっけ?」
「あ、はい」
柔和な垂れ目がじっと俺を見て、にっこりと微笑まれた。アルカイックスマイル、という単語が頭をよぎる。
「釘を刺すようで申し訳ないけど、多英さんはきみのものじゃないので」
「……ん?」
「多英さんが酔い潰れてその世話を俺に任せることを恥ずかしく思うのは、お門違いです」
「……あ、はい?」
身体の芯がやわらかくなりました、と言わんばかりによろけている多英に肩を貸しつつ居酒屋の出口に向かう平野さんをじっと見つめながら、ん、と考える。
身内の恥っぽく思ってたの、俺、言ってないよな?
そして同時に刺された釘も確認する。いや、多英は俺のものではないよ、分かってるよ。何言ってんだ、あんたのもんだよ。いや、別に誰のものであるとかそういうわけでもないか……。
「あれ?」
梅酒に口をつけながら、もぞ、と妙に居心地が悪くなる。耳の後ろがなんだか痒くて、ごまかすように首筋に指で触れた。
いつの間にか、下がったと思っていた温度は再び盛り返し、友人らは多英と平野さんのことを肴にしはじめた。
「俺、多英のカレシ初めて見たよ」
「わたしも、声聞いたのは初めてかも?」
「なんか、アレだな。幸薄そう」
「あはは、言えてる」
俺も、発言こそしないものの笑って頷きながら心の中でこっそり考える。
平野さんが不幸そうに見えるのは、間違いなくあの儚い見た目のせいだ。けれど、彼が現在不幸であるか幸福であるかは置いておいて、だ。もしかして彼は己の幸せそのものをあまり人生において重要視していないのでは。
そんなものには興味がない。もっとほかのことに目を奪われている。そんなふうな雰囲気が漂う。
「……なんか、多英って、大変な人に目つけられたんじゃ……」
「何言ってんだ寿。酔った?」
心のうちを読み取られた気味の悪さもさることながら、彼が残した言葉、「お門違いです」、というものは、俺と多英の関係性の全否定にも聞こえた。
◆
翌日、多英に飲み会の費用の催促をするために、教室で彼女を見かけて声をかける。
「多英、お前昨日の」
「……ねえ、寿」
彼女の様子がどうもおかしい。机に肘をつき、指を組んで顔の下半分を隠している。こんなポーズ、なんかのアニメでえらい人がやってたような気がするけれど。
そして、見えている多英の目は、まるで死人のそれのように生気がない。ここではない遠くを見つめるような視線に、ちょっと不気味に思いつつおそるおそる、何、と返す。
「昨日さ……わたし一杯目飲んだあと記憶がなくて……気づいたら……」
「気づいたら……?」
そこで、多英がすっと息を吸う。俺も、ごくりと唾を飲む。
「……知らないベッドで寝ていた」
「…………え?」
ひやりと背中が冷たくなる。昨日、俺はたしかに平野さんにこいつを託したはずだ。多英の自宅なり平野さんの自宅なりに送り届けてもらえたものと思い込んでいたのだが。
「わたしラブホって何気初めて入るから、テンション上がってしまった」
「お前何言ってんの?」
肩の力が抜ける。平野さんとラブホ、という組み合わせが、俺の中で塩とチョコレートくらいマッチしなくて、混乱する。しかし、おそらく多英を支えての帰宅を面倒くさがったか、何かその辺の事情により、平野さんは帰宅を諦めてラブホに宿泊することにしたのだろう。
それにしても、ラブホにテンションが上がったまではいいが、テンションが上がったのなら、なぜそんな魂の抜けたような顔をしているのだ。
「……テンション上がってるなら、もっと楽しそうな顔してくんない。ジト目が強調されてるぞ」
「このジト目はわたしのせいでは」
「親のせい、ひいては親も親のせい。でも強調してるのはお前だ」
そこで、多英が深々と息を吐く。一瞬目を伏せ、開いたその表情はいつもの多英だった。瞳も、先ほどみたいに死んでないし、よく見れば可愛いと思えそうな感じの猫目になっている。そのきりっとつり上がったまなじりが、俺をじっと見た。
「寿、ああいうところ入ったこと……日常茶飯事か」
「失礼だな。日常茶飯事だよ」
売り言葉に買い言葉でついそんな単語が出たものの、かつかつ貧乏暮らしの大学生にそんな頻繁にラブホに行く金などない。
「で、それが何だよ」
「何というか、男の人って、皆入り慣れてるものなのかなあって」
どきり、と心臓がひときわ高く鼓動を刻んだ。
ほんの少しさびしげな顔をした多英が何を言わんとしているのか、分からないほど愚図でも鈍くもない。多英が物珍しさにきょろきょろしたり困惑したりテンション上げたりしているのを、平野さんはどんな目で見ていたのか。彼女の口ぶりから、それは想像に難くない。
「ひ、人によるだろ……」
「うん」
「あ、あと、女の子の手前おどおどしてたら格好悪いみたいな心理もあるしな?」
「……うん」
フォローを入れたつもりが、なぜか逆効果になったようで、多英はしょんぼりしてしまっている。
俺は、ここで唐突に、彼女に声をかけた理由を思い出す。
「多英、そんなことより、昨日の飲み代払えよ」
「ああ、そっか」
頬杖を解いて、鞄から財布を取り出した多英が、いくら、と聞くので値段を告げる。千円札を数えながら、多英はふと眉をひそめた。
「わたし、カクテル一杯飲んだだけなのに、割り勘なの?」
「平野さんというタクシーを呼んだ代金と思え」
「ええ……」
不満げな声が漏れる。しぶしぶ、割り勘の料金を差し出した彼女は、ふと表情を翳らせた。
「どした?」
「和成さんに、弱いんだったら身体に悪いし、あんまり飲まないほうがいいですよ、って言われた」
「ごもっともだな」
つまんないな、と細く呟いて唇を尖らせる。しかし、多英がそこでいくら拗ねても、彼女が酒に弱いという事実は覆らないし、じゃあ飲んでいいよ、とは言えない。飲んでまた潰れられでもしたら、今度こそ平野さんは俺に雷を落とすかもしれないからだ。
「……平野さんって、けっこう怖いよな」
「…………ん? どこが?」
訝しげに眉を寄せ、多英は平野さんの顔を思い浮かべるように視線をめぐらせた。首を傾げ、どこが、と問う。
「読心術、みたいなの持ってそう」
「ああ……たぶんね」
「持ってるの?」
「膨大なサンプルをもとに分析して、ある程度は分かってそう」
なるほど。人がこういうしぐさを取るとき、このような態度のとき、だいたいこんなことを考えている。そんなサンプルが彼の中にあるわけだな。とすると。
「多英は、わりと読まれそうだな」
「どういう意味」
「何考えてるのか、俺でも分かるくらい分かりやすい」
「失礼な」
顔を歪め、多英はそれでも否定しない。
授業が始まるチャイムの音が響き、同時に講師が教室に入ってくる。俺は、とりあえず多英のとなりに座り、ノートを広げた。多英もとなりでノートを開き、前を向く。
講師が解説しながら板書するだけの簡単な授業なので、俺は途中から飽きてノートの端に多英へのメッセージを書き、彼女に見えるようにノートを寄せた。
「……?」
『平野さんはラブホ慣れてないに一票』。そんな文章を見て、多英が呆れたように目を半開きにする。それから、多英が俺のメッセージの下に書き加えた。
『慣れてるに三百票』。数字の大きさがこどもっぽい。
とは言え真実は平野さんのみぞ知ることである。俺は、あんな頼りなさげで幸の薄そうな人がラブホにばんばん入るような生活をしていたとは、到底思えないのだが。恋人としての一面を見ている多英には、何か思うところがあるのかもしれない。
友達のカレシなんだから、ちょっと仲良くなるまでいかなくとも、話をしてみたい気持ちはあるのだけれど。
どうやら俺は、嫌われているようだもんな。嫌われているというか、たぶん。
嫉妬されてる?