夏のあなたがいとおしい

 久しぶりに帰省した町で、わたしは太陽の灼熱を駅舎のひさしの下で逃れながら兄を待っていた。
 ぷくぷくと浮き出る汗をそのまま滴らせながら携帯の画面をじっと見ていると、クラクションが鳴る。顔を上げる。見慣れた白のミニバンが近づいてくるところだった。急いでそちらに駆け寄り、助手席に乗り込む。

「ただいま」
「おかえり」

 ひんやりしている車内にようやくほっと息をつき、車が発進するのに合わせて言う。

「お兄ちゃん、もう煙草吸わないの?」

 車のダッシュボードにも箱やライターがないし、何より以前のようなやにのにおいが薄くなった気がする。それを何気なく指摘すると、兄は口をへの字に曲げてハンドルをとんとんと流れている音楽のリズムに乗せて叩いた。

「彼女が嫌がるし、何より妹に横流ししてると親父にばれたらやばいんで」
「……」

 わたしがこっそりひと箱スっているのは、それこそばれていたようだ。分が悪くなって黙り込むと、今度は彼のほうから言ってきた。

「俺が言うのもなんだけど、煙草なんか吸わんほうがいいよ」
「……もう吸ってないよ」
「ほんとかあ?」
「うん、二ヶ月に一回くらい」

 携帯の画面が明るくなって、メッセージを受信した。それを横目に鞄に携帯をしまい、見えてきたコンビニの駐車場に騒ぐことにする。

「ねえお兄ちゃんわたしアイス食べたい」
「お兄ちゃん今金欠なの」
「アイスくらい……」

 むなしくも、コンビニの前を、車は通過する。

「ちょっと、ほんとに寄ってもくれないの?」
「まあまあ、夜涼しくなったら連れてってやる」

 そのまま、コンビニを越えてさらに数分走ったところで、車は実家の車庫に着いた。雑多にいろいろと車用品が積んである一角や、弟の自転車がわきに置いてあるのは変わっていない。
 車を降りて、家の玄関のドアを開ける。ただいま、と小さく呟いてサンダルを脱げば、キッチンのほうから母が出てきてタオルで手を拭きながらおかえりと言う。そのわたしの後ろから、兄も入ってくる。

「今お昼つくってるから、もうちょっとしたらできるからね」
「はあい」

 リビングのソファで、テレビのリモコンを握りしめて弟がアホ面をさらしだらけている。

「おっ、おかえり」
「ただいま」

 弟のとなりに座って、鞄から携帯を出して先ほど届いていたメッセージに返信する。今着きました……と送ると即座に既読がついて返事がくる。「俺はまだ電車の中です」。そうか、電車の中だから電話じゃないのか。
 そのまま、何度かどうでもいいようなくだらないようなやり取りを交わしていると、弟が怪訝そうに顔を覗き込んできた。

「姉ちゃん、顔ゆるゆるだけど、どした?」
「えっ、別に」
「ふーん……」

 怪訝そうな視線にさらされ、そそくさと携帯で顔を隠すようにする。と、兄が横槍を入れてきた。

「どうせ彼氏だろ」
「ああ、ヒーローの!」
「……」

 直毅のことは警察沙汰になったので、当然うちの家族も事件を知っている。そして、和成さんが命がけでわたしを助けてくれたことに、一家はすさまじく感謝していて、今回の帰省も連れて帰ってくれば、なんて言われたくらいなのだ。
 もちろん、和成さんはさすがにそれはちょっと図々しいのでは、と固辞した。

「ねえ、写真ないの。母さんは会ったんでしょ?」

 後半部分の言葉をキッチンに向かって張り上げた弟に苦笑して、写真フォルダをぐうっとスクロールする。彼は写真に写る趣味がないようなので、それらしく改まって撮った写真は一切ないのだが、わたしが研究室で撮った姿なら何枚か見受けられる。

「これ」
「どれどれ」
「兄ちゃんにも見せて」

 首を伸ばしてきたふたりに見えるように携帯の画面を傾ける。見た瞬間弟が叫んだ。

「ほっそ!」
「……たーちゃんより細いんじゃ……?」
「わたし今ダイエット中だからいいの!」

 弟が携帯を奪って、和成さんの顔に合わせて写真を拡大しはじめた。そんなことされるんならもっと構図より画質がよく撮れたものを選んだのに。

「なんか、何から何まで幸が薄そうだね」

 何も否定ができない。実際和成さんって、あんまり幸せじゃないというか運がよくないと思う。先日、教授から頼まれた荷物運びを一気にやろうとしてぶちまけて、教授本人に見つかってチクリとお小言を刺されていた。和成さんいわく、見つからなければもっとうまくやれた、とのこと。

「てか、別に姉ちゃんダイエットする必要ないでしょ」
「そうだよ、たーちゃんはふつう」

 携帯を構えているわたしに気づいて微笑む和成さんの顔を好きなだけ拡大し、最終的にふたりはそういう結論に行きついた。
 わたしはたしかに、この身長でこの体重はごく平均的なものなんだと思う、和成さんが細すぎるだけだ。けれど、だからこそ、というのもある。となりにいるのが彼だからこそ、細くなりたいという思いが募る。
 昼食を食べて、母とぐだぐだと話をしているうちに、和成さんもご実家に到着したらしい。海が家の近くにあるらしく、写真もついてきた。
 恥ずかしい話大学生になるまで、生で海を見たことがなかったのだ。

「お母さんは海見たことある?」
「そりゃあね。たーちゃんは、そういえば連れてったことないね」
「うん。大学入ってから、初めて見た」
「楽しかった?」

 海に遊びに行ったときのことを聞かれているのだと分かり、頷く。母は、でも、と言う。

「でも、平野くんは海なんて似合わなさそうね」
「そうだね……一緒に来てくれたけど」

 先日海に行ったときのことを思い出す。彼は、日焼けすると赤くなるからと言って七分袖のシャツをはおっていて海には一緒に入ってくれなかった。わたしも、彼氏と海まで来て本気で泳ぐなんてすることもないと思ったので、波打ち際でふたりでお城をつくって遊んでいた。和成さんの首筋は、わたしが持って来た日焼け止めを塗ってあげたのに、赤くなった。
 腫れた首筋を冷たいタオルで冷やしながら彼は痛々しく笑う。それからわたしに聞くのだ、楽しかったですか、と。
 正直なところ、去年希世やほかの友達と一緒に行ったときのほうが楽しかった気がすると思ったけれど、それはもしかしたら「初めての海」という補正がかかっていたかもしれないし、和成さんと一緒で楽しくなかったわけはないのだ。

「平野くん、元気にしてるの?」
「うん、夏の暑さに若干しょげてるけど」

 基本的に彼はクーラーの効いた室内から出てこない。

「ああ、想像ができる」
「身体壊すって言ってるんだけどね」

 母が買ってきてくれていた近所のケーキ屋のケーキを食べながら(姉ちゃんダイエットは? という笑い混じりの声が飛んできた)、のんびりと暑いのだろう窓の外を見ながら涼しい室内でやり過ごす。田舎なせいか、蝉の声が激しい。
 母は、あの事件の少しあとわたしからの連絡を受けて、数日間わたしの部屋に泊まっていってくれた。そのとき、和成さんのお見舞いにも一緒に来てくれて、そのときに、「多英を、助けてくれてありがとう」、そう言って、泣いたのだ。
 病室を出たあとで、母は、もっと気の利いた言葉を使えばよかったとのようなことを照れくさそうに語った。母がわたしのことを「たーちゃん」でなく「多英」と呼んだのは、きっとあれが初めてだった。

「姉ちゃん宿題教えて……」
「……百円」
「弟から金取るのかよ!」

 夕方、少し涼しくなってから、弟の数学の宿題を見る。中学生の勉強は意外と難しくて、でもわたし以上に弟は馬鹿であった。
 教えながら、和成さんならきっともっとじょうずに教師をする、と思う。勉強を教えるのではなく、きっかけを与えるのが教師の仕事、と言っていた気がするので、わたしも去年までのようにひたすら解に導くのではなく、弟をやる気にさせてみようとがんばってみる。結果としてはまったくもって失敗したけれど。

「平野さんって、どんな人なの?」

 休憩に麦茶を持ってきてふたりで飲んでいると、ふと彼が聞いてくる。わたしは少し考えた。

「ボウル一杯分の霞を食べて生きていそうな人」
「…………やっぱ?」
「一緒にごはん食べても、まだそう思っているところがある」

 シャープペンシルをくるくる指で回しながら唇を尖らせた弟が、唸る。

「でもさ、ふつう人のために身体って、なかなか張れないよな……すげー人だな」
「……うん、すごい人だよ」
「普段って何してる人?」
「院生やって、家庭教師のバイトしてるよ」
「なんで連れて来てくれなかったの!?」

 わたしの授業では不満だと言うのか。だって姉ちゃん教えるのへたくそ。などとじゃれていると、最初に決めた休憩時間をオーバーしていることに気づかないまま、母が夕飯ができたと呼びに来る。宿題全然終わらなかった、と嘆く弟に笑いながら、そそくさと席を立つ。
 美味しい夕食のあと自室に戻ると、それを狙ったように和成さんから着信が入る。

「もしもし」
『もしもし、今大丈夫ですか?』
「はい」

 ベッドに寝そべって、他愛もない話をする。

『姉に、首をどうしたんだって聞かれました』

 ははは、と情けなく笑った彼の首は、シャツのラインに沿って赤くなってしまっている。可哀相なくらい。黒くはならないのか、と聞いてみたところ、ここまで日焼けしたことはほとんどないので、身体が慣れていないだろうしならないだろう、と返ってきた。

「なんて答えたんですか?」
『え? 海に行ったと正直に』

 きょとんとした答えに、そうか、と思う。そうか、ごまかす必要もないよな、と。
 お姉さんは、誰と行ったのとか、そういったことを詮索したんだろうか、と少しだけ気になるが、ここでわたしがそれを詮索するのも少し違う気がしたので、黙っておく。

「……海、いいですよね」
『え?』
「ここ、海がないので」
『ああ……そうでしたね。先日は楽しそうで何よりでした』

 彼が髪の毛を耳に掛けるしぐさをしたのが、なんとなく分かる。なぜ、と聞かれても分からないけれど。
 穏やかに笑う彼に、早く会いたいと思う。会って、実家の周りは蝉の声がうるさかったこと、弟に彼がヒーロー扱いされていたこと、母の料理はやっぱり美味しかったことを伝えたい。

「……会いたいです」
『奇遇ですね。俺もです』

 まるでわたしがそう言うと分かっていたかのように、間を置かずそう告げられて、頬が熱を持つ。
 海は好きだ。憧れも強かったし、楽しい場所だとインプットされてしまったし。けれど彼の可哀相なくらいに赤く腫れた首筋にひんやりとした化粧水を叩きながら、もういいかな、と思ったりもした。
 だってこんなに可哀相な思いをしてまでわたしのために動いてくれる人に、これ以上無邪気なことは言えない。知らないふりで来年も、なんて言えない。

「明日、地元の友達と会って遊ぶんです」
『ああ、それは。楽しんできてくださいね』
「和成さんのことをめいっぱい自慢してきます」
『……』

 少しの沈黙が走る。何か変なことを言っただろうか……と自問していると、咳払いと一緒にぼやきが聞こえてきた。

『……ほどほどでお願いします……期待値上げられちゃうと、応えるの大変なので……』
「すっごく期待値上げておきます」
『多英さん』

 少し照れたようなたしなめる声。
 だって、彼のことをどう悪く言いようがあるのだ?

『……じゃあ、俺も友人たちにせいぜいのろけておきます』

 再び咳払いして、そう言った彼は分かっていない。わたしにそんなの効果がないこと。だって和成さんは絶対そんなことしない。

「ほんとに? いい女だって触れ込んでおいてくださいね」
『…………』

 調子に乗ってそう言えば、ようやく、どうやら気づいたらしく短い沈黙のあと、ため息をつかれた。

『多英さんが可愛いことは、俺だけが知ってればいいと思うんですけどね』

 噛み締めるようにそう呟いて、その言葉の意味を探る前に彼は話を変えてしまう。
 蝉がうるさい。でも、心臓はもっとうるさい。
 身体のうちで一番冷たい場所だと言われる耳朶が、和成さんの声に揺らされてわずか、熱を持つ。