とろけるような、夢みるような視線をわたしに向けて言う。
「多英さん、今度の月曜日、放課後空けておいて」
何の誘いか、わたしに分からないはずがなくて、わたしに悟られていることを知っていてなおそのように嫣然と笑える彼がちょっと不思議で、操られるように頷いていた。
◆
朝から、ついていなかったのは事実だ。
月曜は一時間目から授業が入っていて、つまりわたしは通勤ラッシュの満員電車に乗らなければならないわけだが、そこでとても不愉快な思いをした。ほんの少しお尻を撫でられただけではあるのだが、こういうことは程度の問題ではない。
くさくさした気持ちで大学に向かうと、一時間目は教授の都合で休講になっていた。唖然として掲示板を眺め、ネットで確認しておけばよかった、そう思いつつもう来てしまったものは取り返せない。
しばらく掲示板の前で立ち尽くし、カフェテリアに向かう。すると、そこには同じ授業を取っていた寿の姿があった。
「寿」
「お。オハヨ」
「来ちゃってたんだね」
彼のことだからしっかりちゃっかり、ネットのほうで確認してから行動に移すと思っていたが。そんな気持ちでそう声をかけると、寿は苦々しい顔をした。
「あれが貼り出されたの、ついさっきだぜ。最新情報」
「あ、そうなんだ」
それなら、わたしが満員電車に乗ったのも、不正解ではなかったわけだ。コーヒーを頼んで寿のとなりに座り、ため息をつく。
「どした」
「……朝、電車で痴漢に遭って」
「うっわ、最悪じゃん」
そのままぶつくさと文句を連ねていると、寿の顔色がだんだんすぐれなくなってきた。
「なんか……女の子って大変なんだな……」
「なにそれ」
「そのまんまの意味だよ。痴漢とかさ、合意の上でのプレイならともかく、嫌がってる女の子にさわって何が楽しいのって感じだよな」
合意の上でのプレイならいいのか。
寿がいったい何にしょげているのかはよく分からないまでも、彼がわたしと同じ不愉快な気持ちを共有してくれているということが分かり、ほんのわずか溜飲が下がる。
それから、わたしたちは二時間目が始まるまでをカフェテリアでお喋りをして過ごした。内容は特筆するようなことでもない世間話ばかりではあったものの、寿は下手に格好よくて私生活が充実している人間なだけに、話題には事欠かないし話の回し方もじょうずで、あんまり話を広げたりするのが得意じゃないわたしからすれば、やっぱり見目麗しく他人とコミュニケーションを図るのがうまい人間はすごい、とか思っていたりした。
「じゃ、行くか」
「うん」
二時間目、わたしと寿は違う授業を取っていたので、それぞれの教室に向かうために席を立った。
「じゃあ、またね」
「おう」
寿と通路の途中で別れて、ちらりと時計を見ると、それなりに切羽詰まった時間であることに気づき慌てて走る。次の授業は、遅刻に厳しい先生なのだ。
「きゃ!」
「わっ」
だがしかし、ちょうど曲がり角のところで、反対側からやはり同様に急いでいたのか走ってきた男の子とぶつかってしまった。そうとうなスピードで走ってきていたのか、弾き飛ばされたのはわたしのほうだった。
「ごめん! 大丈夫?」
「い、たた……」
思い切り尻餅をついて身を投げ出してしまった。焦ったようにわたしに手を差し伸べた男の子に苦笑いし、自力で立ち上がる。
そのまま、心配そうにわたしを見つつも、自分も急いでいたためか、彼はそわそわともう一度ごめんと叫び去っていった。
けっこうお尻痛い、と思いつつもう一度何気なく時計を見る。
「げっ」
もうなりふり構わずダッシュである。しかし、悲しいかな教室一歩手前でチャイムが鳴り響き、急いでドアをスライドさせたもののしっかり出席を取り始めていて、先生は入ってきたわたしを一瞥して無情にも言い放った。
「長岡さん、遅刻ね」
「そんな」
あの接触事故さえなければそんな不名誉なポイントは入らなかったのに。すっかり萎れて空いている席に着くと、となりにすわっていた女の子がそっと耳打ちしてくる。
「ねえ長岡さん。腕、どうしたの?」
「え……?」
「あざできてる」
自分の腕を見る。なるほど、たしかに打ち身みたいになっている。さっき転んでしまったときだろうか。とことんついていない。
それなりに大きなあざを見ていると、なんだか痛くなってくる。先ほど言われるまで気付きもしなかったのに、現金な頭であるが、仕方あるまい。
そのまま、じくじく痛み出した腕を持て余しながら授業を受け、カフェテリアに戻って昼食にすることにする。すると、今度は繭香ら友人のグループに遭遇した。
「あ、多英〜」
「おはよう」
にこにこと手を振ってくる華やかな集団に手を振り返す。
「なんか顔色悪くない?」
「うーん」
朝からああも不幸が続けば、顔色も悪くなるだろう。苦笑いすると、友人がひたりとわたしの額に手を置いた。
「うわっ、多英すごい熱なんだけど!」
「……え?」
「あ、ほんとだ!」
「うそ」
額に手を当ててみるも、自分ではよく分からない。首をひねり唸ると、繭香が立ち上がってわたしを支えるようにして歩きだす。
「あの」
「医務室行こう?」
「あ、うん」
ほとんど引きずられるようにして医務室に連行される。そういえば、医務室って入学してから健康診断以外で入ったことがないな。そんなのんきなことを思う。
「先生、この子熱があるみたいなんですけど」
医務室に着いて、繭香がてきぱきとわたしのわきに体温計を挟みベッドに横たわらせ、保健医はカルテのようなものを手に持っている。
「吐き気は? 咳や腹痛はある?」
「特にないです……」
「いつから具合が悪いの?」
「いや、あんまり具合が悪い自覚は……」
質問攻めにされているうちに、体温計が鳴る。取り出して表示を見る。
「何度あった?」
「八度七分……」
「立派な風邪ね。帰って休むか、病院行くか、どっちにする?」
熱以外には自覚症状がないので、病院は辞退させてもらった。心配する繭香を退けて、わたしはひとり帰宅の途につく。一応、解熱剤は飲んだので治まるだろうとは思うが、効いてくるまでに時間がかかるものだということも承知している。そして体温計の表示を見た途端具合が悪く感じるのだから始末が悪い身体だ。ふらふらする身体でどうにかこうにか自宅に帰りつき、適当に着替えてベッドに横になる。
「あ……」
和成さんに連絡しないと。
電話は迷惑になると思い、メッセージで、熱が出たこと、今日の約束はキャンセルしてほしい旨をしたためて送信する。返信を待たず、ベッドに突っ伏して枕元に携帯を放置した。
身体がだるい。頭もちょっとずきずきしてきたかもしれない。
それと同時に、なんだかひどく惨めな気持ちになった。
なんで今日に限ってこんなにアンラッキーなんだろう。なんで、今日に限って。
「うう」
身体を横たえると一気に倦怠感が襲い、かもしれないどころではなく頭がハンマーで殴られたように疼き出し、わたしは眠りに落ちていた。
◆
目が覚める。ぐわんぐわん揺れている視界に、誰かいる。
「…………和成さん?」
そうだといいな、と思う人の名前を呼ぶ。
「目が覚めました?」
そして、そうだったことに安心してゆっくりと頷いた。そのとき、頭が激しく痛む。押さえようとするも、腕が上がらなかった。関節がぎしぎしと痛むのだ。
「うっ……」
「無理しないで。まだつらいでしょう」
細い手が伸びてきて、髪の毛を梳いてくれる。その感触で、頭がべったりと汗で湿っていることに気づいた。けれど、白樺の指はそんなことを気にするでもなく撫で続ける。
「驚きました。いきなりあんなメッセージがきて」
「……ごめんなさい」
「どうして謝るんですか?」
思えば、昨晩エアコンをタイマーで消すのを忘れて寝入っていたからではないだろうかとか、最近寝不足が続いていたからではないだろうかとか、いろいろ原因は浮かんでくるのだ。自己管理が甘いせいで体調を崩して和成さんに迷惑をかけるなんて情けない。
「だって、今日、和成さん、美味しいレストランに連れて行ってくれるって」
「言いましたね」
「わたしすごく楽しみにしてて」
「うれしい」
「なのに……」
泣きたくないのに、気が弱っているのかまなじりにうっすら涙が浮かぶ。重たい腕を持ち上げて目元を擦ると、髪の毛を撫でていた指にわずか力がこもった。
「多英さん。たしかに、こんなことになったのは残念ですけど、多英さんは悪くないんですから。誰だって体調を崩すことはあります。それに……」
そこで言葉を切り、和成さんは少し何かを探すように沈黙した。
彼の慰めの言葉が痛い。自己管理ができていなかったこともあるし、今日一日が最悪だったことも、心を抉る刃物の鋭利さに拍車をかけている。
うじうじしていると、彼は儚く笑んで口を開いた。
「これなら、多英さんを独占できる」
「……」
「誕生日の多英さんは、俺だけのものです」
今日、わたしは誕生日を迎えた。それで、夕方からずっと和成さんと一緒にいる予定だったのだ。
「多英さん、生まれたの何時頃でしたっけ?」
「……夜の九時頃です……」
「ああ、いい感じですね、今ちょうど」
腕時計を見て、八時四十分、と呟く。
「ほんとうだったら今頃まだ外だったかもしれないので、これは俺にとってはこの上ないラッキーです」
白い、生気のない頬を緩めてそんなことを言うので、わたしは思わず、愚痴を舌に乗せていた。
「……今日、朝から痴漢に遭って」
「なんと。唾棄すべき犯罪行為……」
「その上、そんな目に遭ってまで学校に行ったのに休講で」
「教授にお尻ぺんぺんですね」
「しかもそのあと、廊下で男の子とぶつかったせいで厳しい先生の授業に遅刻して」
「お怪我はありませんでしたか?」
「……腕にあざができました」
挙げれば、挙げただけついていない。こんなにもついてない誕生日を迎えている人間、ほかにいるんだろうか。
荒れた指がわたしの腕のあざに触れる。みっともない青あざになってしまったそれを注意深く慈しむように撫で、困ったように笑う。
「大変でしたね。お疲れさま」
ほんとうに、大変だった。その上和成さんにまで迷惑をかけて。
「それは気にしないで、大丈夫。ケーキ、持って来たので、熱が下がったら食べましょう」
「……ケーキ?」
「ええ。近所に美味しいケーキ屋があって、そこで予約していたんです。多英さん、苺お好きでしょう?」
ふと、彼の手が離れていく。と思えばすぐにまたタオルとともに戻ってきて、額の汗を拭ってくれた。されるがままになりながら、わたしはふと目を閉じてまた開く。
最悪の誕生日だった。朝から、さっきまで、いいことなんかひとつもなかった。
けれど。
「和成さん、ありがとう」
「……お誕生日、おめでとう」
丁寧に汗を拭いた額に、乾いた唇が落ちてきた。そっと、長く押しつけられて、なぜだかひどく安心してしまう。そのまま唇は目蓋の上にもかざされて、それから離れていく。
「あなたが生まれてきてくれて、ほんとうによかった」
そう、とろけるような笑みを浮かべて言うのだから。
もしかしたらわたしが生まれたことはほんとうに素敵なことだったのかもしれないと、そう思わせてくれるから。
重たい目蓋を閉じたあと、再び目が覚めた頃には、きっと部屋には朝陽が射し込んでいる。そして、すっかり熱も下がったわたしは、夜中わたしを見つめてくれていたかもしれない優しい彼と、美味しい苺のケーキを食べているのだ。
それはきっと、とても幸せなこと。