03

 目が覚める。まだ眠っていたくて開けられない目をこすって、枕に頭を置き直す。
 冬の朝は、薄暗い。遮光カーテンの隙間からかすかに覗く気配は、でも少し春めいている。
 暖房が効いていない部屋は寒くて、思わずとなりのぬくもりに縋った。自分とだいたい同じ温度を持つそれが何なのか、理解が遅れて、それよりも取れた暖にほっとする。

「おはようございます」

 優しい甘ったるい声が降ってきて、わたしはそこでようやく重たい目を開けた。
 豆電球と、遮光カーテン越しの外からのぼんやりとした明かりだけの暗い部屋で、その濡れたチョコレート色の瞳だけが自ら輝くように光っていて、じっとわたしを見つめている。

「あ、お、おはようございます」

 慌てて離れると、くすくすと笑いながら残念そうに呟かれる。

「もっとくっついてもいいですよ」
「い、いえ! もうじゅうぶんです!」

 昨晩のことをまざまざと思い出してしまい、羞恥に埋もれて死にたくなる。
 他人に興味がない、と言い切った和成さんの言葉は絶対嘘だ。他人に興味がない人はあんなふうに人に触れない。
 赤くなる顔を隠そうと腕を上げたところで、わたしは自分がキャミソールとショーツしか身に着けていないことに気づいた。

「多英さん、身体大丈夫ですか?」
「……わたしより自分のことを心配してください……」
「俺? 俺は平気ですよ、もうすっかり」

 わたしより体力のなさそうな人に心配されるほどやわな身体じゃない。
 そうぶつぶつとぼやきながら布団の中に沈もうとすると、それをやんわり阻止されて、彼の上に乗るようなかたちで引きずり上げられてしまった。見れば、和成さんだってかろうじて下着を着ているだけだ。上半身は裸で、痛々しい包帯が腹に巻かれている。

「なるほど……やわじゃないんですね……」
「あの、何を」
「何って、やわな身体じゃないんでしょ?」

 彼の言わんとしているところがようやく分かって、じたばたと逃げ出そうともがくと、彼が少し顔を歪めた。傷にさわったのかもしれない。

「あ、すみません……」

 慌てて、自分の腕と足を、和成さんを跨ぐように開いて体重をかけないような体勢にしたのだが、これではわたしが彼を押し倒しているようなものだ。

「積極的ですね」
「違います!」

 身体中が燃えるように熱い。上半身を起こして、そっと足もどかせようと浮かせたところで足首を掴まれて無様にもベッドにひっくり返る。

「きゃっ」

 一瞬何が起こったのか分からずに目を白黒させて、それからわたしに跨っている和成さんを見る。見下ろされるかたちになり、心臓がすごい勢いで鼓動を刻み始める。豆電球に照らされる長い黒髪が垂れて、彼はそれを耳に掛け、顔を近づけてきた。どうしようもなくなって、ぎゅっと強く目を閉じると、鼻を唇でやわく食まれた。

「……!」

 想定外の刺激に、思わず息を詰めた。もう一度ついばむように唇が触れて、離れる。

「……いただきたいところですけど、今日、高校の合格発表なんですよね。途中で生徒から連絡が来て興が冷めるのは避けたい」

 ちらりと視線が枕元に置いてある携帯を探る。わたしは、反対に押し倒された体勢のまま、ほっと息をついた。
 そのまま腕が携帯をたぐり寄せ、通知を確認するようにボタンを押した。

「うん、このままだと発表時間に食い込んでしまう」

 渋い顔をつくってベッドから起き上がり、その辺りにあったズボンをはく。真っ白で風が吹けば転がっていきそうなくらい細くて、ほんとうに白樺みたいだと思った。

「今日発表の生徒さん、何人くらいいるんですか?」
「三人です」
「けっこういるんですね」

 シャツに腕を通しながら彼は少し考える。

「俺が見てる子は全員受験生ですよ。四人見てるんですけど、残りのひとりは大学受験だし」
「受験生をそんな一気に任されるのって、すごくプレッシャーじゃないですか?」
「前も言いましたけど、俺たち教師はきっかけにすぎません。あとは全部、本人のポテンシャルです」

 答えになっていないような気がするが、要はプレッシャーがない、ということだろうか。
 シャツのボタンを留めてしまった彼は、のろのろとようやく起き上がったわたしのところまでやってきてシャツを手渡した。どうしても、彼のシャツなので大きくなってしまうのは避けられないが、わたしの手の届くところにパジャマにしているスウェットがなくて、しぶしぶそれを受け取った。

「不満そうですね?」
「魂胆が透けて見えます」
「あれ、隠せてなかったですか」
「全然」

 害のなさそうな、儚げな幸の薄い顔をしておいて、ひどい詐欺だ。
 ふと笑んで、彼は小首を傾げて薄い唇を開く。

「着てくれないんですか?」
「……」

 プライドを取るか、和成さんの笑顔を取るか、悩んでいると、彼の手の中で携帯が震えた。画面を見て、ため息をついて耳に当てる。

「もしもし」

 そのまま彼は寝室を出て行ってしまったので、わたしは、これ幸いと自分のスウェットを探すことにする。布団の山の中から探り当てて頭からかぶったところで、一息ついた。

「おめでとう」

 半開きのドアを隔ててそんな言葉が聞こえてきて、わたしはほっと胸を撫で下ろす。よかった、受かったんだ。
 それにしても、敬語を使わない彼というのはなかなか新鮮で、わたしはしばし、漏れてくる和成さんの声に耳を澄ませていた。

「うん、よかったね、ああ、いや、さおりちゃんが頑張ったんだよ、俺は手伝っただけ」

 さおりちゃん。
 中学生の男子に優しくする必要なんてありませんから。
 じゃあ、可愛い女の子が生徒さんなら?

「うん、明日行くから、合格通知見せてね。じゃないと俺信用しないよ。え? ああ、もうすっかり平気。心配してくれてありがとうね」

 なんだ、ちゃんと優しい。
 うるさい心臓にちくりと針が刺さったような痛みが襲う。
 寝室を出て行こうと立ち上がったけれど、ずるずると壁を伝いしゃがみ込んでしまう。膝を抱える。
 こんなことで嫉妬したってどうしようもない。そんなことは分かっているし、たぶん嫉妬するほどのことじゃない。
 けれど何だか、嘘をつかれたような気持ちになった。あんな言い方をされたら、ふつう生徒さんは全員男の子だと思い込む。
 壁に寄りかかってぼうっとしていると、いつの間にか通話を切ったらしい和成さんが寝室に戻ってきていた。

「多英さん? 具合悪いんですか?」

 すぐに心配そうに駆け寄ってきて、わたしの肩を揺する。ゆっくりと首を横に振る。

「……別に」
「別にじゃないでしょ。どうしたんですか?」

 なんで、わたしには敬語なのに、さおりちゃんにはあんな砕けた話し方なの。
 そんな言葉は出てこなかった。代わりにもう一度、別に、と言う。

「多英さんが、別に、って言うときは、大抵別にじゃないんです」
「……そこまで分かってるなら……」

 このもやもやした気持ちに気づいてくれてもいいのに。
 こんなことを思う自分がみっともなくて情けなくて、涙が出そうだ。
 奥歯を噛み締めて泣くのを我慢していると、再び和成さんの携帯が震えた。高校によって発表時間にそんなに差はないだろう、きっと次の生徒さんだ。
 わたしのほうをちらりと見て、和成さんが仕方なしというふうに電話を取る。

「……もしもし。うん、そっか、おめでとう」
「……」

 息をひそめて、わたしはそれでも安堵のため息をついた。応援しているサッカーチームがひとつずつ確実にペナルティキックを決めていくのを見ている気持ちだ。

「うん、もう大丈夫。心配してくれてありがとう。親御さんには連絡した?」

 和成さんは、怪我をして入院した時期がちょうど入試の日程とかぶっていたので、メール等で生徒さんから質問を受け付けていて、大変そうだった。見舞いに行くと大抵ノートパソコンを開いていたのも、作業というよりは質問に対する答えを打ち込んでいたからなのだ。
 それって給料は出るのか、とぶしつけな質問をしてみたところ、びっくりするほどあっさりと、サービス残業です、と返ってきた。
 いくら時給がいいと噂でも、それじゃあ労働に対価が見合わないのでは、と思う。だって、授業をするバイトそのものの時間以外にも、彼は教材を選び問題を選び、どうすれば分かりやすく説明ができるかを気にかけている。

「とりあえず、明日行くから合格通知見せてね。うん、はい、はい」

 漏れ聞こえた声の低さからして、今度は男の子なのだろう。さおりちゃんとだいたい同じふうに接していたので少しだけ安心する。