「さて。この前は見逃したけど、今度はちゃんと聞かせてもらいますよ」
電話を切って、和成さんはわたしに向かい合う。
この前は見逃した。その言葉の意味が一瞬分からなくて戸惑う。が、すぐに思い出した、事件が起こった日の昼間、和成さんとほかの女性が仲良く話をしていたことにわたしが不機嫌になったときのことだ。
理由までは知られていないようだが、彼の中ではしっかり、見逃したことになっているらしい。
「俺が原因で不機嫌になってるなら、ちゃんと言ってください。黙って我慢されちゃうの、嫌です」
「……」
壁にもたれかかっているわたしを逃がさないと言わんばかりに、彼は覆いかぶさるように壁に手をついた。そして、もう片方の手をわたしに伸ばしてくる。
「せっかく触れられるようになったのに……今更逃がせない」
頬をくすぐられて、ぞくりと背筋が粟立つほど官能的な声で、そんなことを言う。
こんなの、わたしに拒否権なんかない。
「……和成さんが……生徒さん皆男の子だって言うからそう思ってたのに……それに、生徒さんたちには敬語じゃないのに、わたしには敬語だし……さおりちゃんに優しいし……」
和成さんが、深々と息を吐いた。
呆れられた、と思った。こんなこどもみたいなこと、やっぱりどれだけ迫られようと言わないほうがよかった。
フローリングに触れる剥き出しの足から身体中に染み渡るように冷たさが入ってくる。
「多英さん……何くだらないこと言ってるんですか……」
「くだらなくなんか……!」
「くだらないです」
ばっさりと断言した和成さんは、ふとわたしのスウェットから覗く手首に触れた。
「冷えてる。とりあえずリビングに暖房つけたので、そちらに」
「……」
立ち上がった彼に手を差し出され、なすすべもなくその手を取ると、引っ張り上げられた。こんな細い人にわたしの体重をかけてしまって、肩とか脱臼しないかな、と心配になる。
ソファに座らされたわたしは、それでもせめてもの抵抗でソファの上に足を乗せて膝を抱えた。
「くだらないですよ」
彼はキッチンに向かいながらもう一度言う。むっとする。返事をせずに、彼のほうを見ることもなく黙り込む。
「誤解があるようですので言っておきますけど、俺は生徒が全員男子だって言った記憶はないです。それに、多英さんは自分がさおりちゃんと同じ扱いでいいんですか?」
全部正論である。
和成さんは生徒が男の子だけだとはたしかに言わなかった。それに、さおりちゃんと同じ扱いは嫌だ。
「こんな言い方するのも何ですけど、さおりちゃんの扱いはビニール傘並みに雑です」
たとえも雑だ。たしかに、安価で手に入る使い捨て感覚ではあるものの、もっといいたとえがあったろうにと思う。
ふうわりと甘ったるくてわずかに酸味の感じられるいい匂いがする。けれど、わたしはまだ、和成さんのほうを見ることができないでいた。
「俺は」
声が近くなって、彼がキッチンからこちらにやってきたことを知る。それでも意地を張って視線を合わさないようにしていると、目の前のテーブルにカップが置かれた。中身は。
「……ロイヤルミルクティー」
ストレートティーじゃなくて、そしてきっと彼のことだから、単なるミルクティーでもないと、すぐに想像がついた。
思わず、顔を上げる。和成さんは真面目な顔でわたしのとなりに座り、チョコレート色の瞳でじっとこちらを見ている。
「多英さん、俺はね」
「……」
「あなただけを特別扱いしたい」
「……」
真摯な瞳が、切々と何かを訴えかけるように揺れる。視線を逸らせなくなって、唇をすぼませた。
「多英さんの不機嫌の理由は、ほんとうにくだらないけど」
そんなに何回も言わなくたって聞こえている。ちょっとひどい。
睨みつけると、彼はくすりと片頬だけ持ち上げて笑んだ。
「すごく可愛い」
眉が吊り上がる。予想だにしなかった言葉に遭遇すると、人はだいたいこんな顔になる。というテンプレみたいな驚き方をしてしまったわたしは、慌てて顔を引き締めた。
「だって、たかがさおりちゃんに嫉妬って……」
「たかがじゃないです!」
「たかがですよ。俺からしてみれば、さおりちゃんなんてその辺の石です」
ゆるゆると緩みだした頬を隠そうともしない彼の腕を叩くと、大げさに痛がられた。
「怪我人はいたわってください」
「あ、ご、ごめんなさい」
「冗談です。もうすっかりいいので。それに、多英さんになら傷口こじ開けられても文句言いません」
「そんなこと言うとほんとに開きますよ?」
「いいですよ。ちなみに三十針以上縫いました」
この飄々とした受け答えに、すっかり毒気を抜かれてしまって、もうわたしが怒っていた理由もよく分からなくなってきた。
そもそもこの人は、気を逸らすというか、論点をずらすのがとてもうまいのだ。
そして、論点をずらされていることに気づいたころにはすでに、もとの話題は古くなってしまっている。
「三十針?」
「正確には医者も覚えてないらしいですけど。まあそれくらい縫ったんじゃないって言われました」
「覚えてないものなんですか?」
「このレベルの傷になるといちいち数えないらしいですよ。……これ以上すると、けっこう多英さんの嫌いな話になってくると思うんですけど」
彼は、わたしがホラー映画が苦手だということを覚えているようだった。そりゃあ、あれだけ怖がらせて楽しんだのだから、忘れてくれても困るけれど。
「内臓の傷を縫合した話聞きたくないでしょ?」
「……そうですね」
「傷痕も、あんまり見たくないでしょ?」
「でも、わたしのせいだし」
「どっちかっていうと自業自得です」
「え?」
ロイヤルミルクティーを飲んでいた和成さんが、ふと動きを止めた。それから、眉をひそめて視線を明後日の方角に向ける。
「……いや、大したことではないんですけどね……」
「どういう意味ですか?」
「せっかく淹れたミルクティー冷めますよ」
「ちょっと」
問い詰めようとしたところで、テーブルに置かれていた彼の携帯が震える。三人目の生徒さんだ、というのはすぐに分かった。彼が指を滑らせて電話を取った。
「もしもし。うん、うん。おめでとう」
ああ、よかった。ほっとわたしもため息をつくと、その気配を察知したのか、頭を撫でられる。そのまま、彼は前ふたりと同じように合格通知を見せるように言い聞かせ、立ち上がる。
「俺じゃないよ。きみが頑張った結果だよ」
少し前なら、謙虚な人だ、と思っていたかもしれないが、俺の授業を受けておいて落ちるなんて、という発言を聞いたあとだと、当然の結果、と言っているふうに聞こえる。そして実際、彼の中では当然の結果なのだ。
冷蔵庫の中身を覗きながら、彼が通話を切る。
「よかったですね、三人ともちゃんと受かって」
背後から近づいて、ねぎらいの言葉のようなものをかけると、彼はふんと鼻を鳴らした。
「当たり前です。落ちてたら俺が雷落とすところです」
「和成さん、すごいんですね」
「本人たちの努力ですよ。俺の授業は半分は雑談なので」
卵をふたつ取り出して、玉子焼きと目玉焼き、どっちがいいですか、なんて聞いてくるので、あえて手間のかかるほうをリクエストする。
「玉子焼き」
「うーん。スクランブルエッグになっちゃいますけど、いいですか?」
「じゃあ、わたしがつくります」
「えっ。多英さんの手料理」
「そんな言うほどのものではないです……」
玉子焼きくらいでここまで大げさにうれしそうな顔をしてくれるのなんて、きっとこの人だけだ。
電話がかかってくる前に、何を話していたのか忘れたわけではないけれど。彼はきっと教えてはくれないだろう。それに、きっと彼が言う通り、大したことではないのだ。
頭をちかちかとよぎった何かを無視して、わたしはボウルに卵を割り入れた。
つるんと飛び出した透明の卵白に包まれて、ふたつの黄身がこちらを覗き込む瞳のように、てらてらと輝いている。