02

「こんにちは」
「あ、こんにちは」

 個室から大部屋に移された和成さんは、だいぶ元気になった。周りのベッドの人たちはそれぞれカーテンを引いてプライベートスペースを確保して、互いに干渉しない空気が生まれているし、気楽なものである。
 ベッドから身を起こし、太腿の辺りにノートパソコンを乗せてキーボードを叩いている。こんなときにまで作業している、と思って文句を言おうとすると、かけていた眼鏡を外し、彼はにっこりと笑った。

「外、寒いですか?」
「はい、まあ。でも歩いてるとちょっと汗をかくくらい」

 スヌードを首から外しながらベッドわきの丸椅子に座ると、ふと彼が目を細めた。

「いい匂いがします」
「え?」
「いいなあ。甘いもの食べてきたんですね」
「ああ、えっと、ファミレスでパフェを……」

 敏感な嗅覚だ。まさか服のどこかにクリームやアイスがついているんじゃなかろうな、そう思い袖を見るも、もちろんそうではない。

「病院食、とにかく不味くて……」

 しょんぼりしながら、和成さんは唇を尖らせる。

「俺ね、肉だけはどこに行ってもだいたい裏切らない、多少品質は落ちても肉の味がする、と思ってたんですけど、ここのハンバーグ、たぶん肉じゃないんですよ。およそ肉の味がしません」
「……そうなんですか?」

 和成さんの普段の食生活が豪華であるとか、そんなことは微塵も思っていないので、この病院の食事はよっぽどなんだなと思う。病院は、警察と並んで、わたしの中では「正義ながらなるべく関わり合いになりたくない場所」に位置している。

「明後日退院したら、何か美味しいもの食べに行きましょう」
「そうですね。何食べたいですか?」
「うーん……そう言われると、特に食べたいものがない」

 考えながらそうぼやいている彼に、ふと先ほど聞こうと思いついたことを問う。

「和成さんって、誕生日いつですか?」
「え? 誕生日? 十一月十七日ですけど、なんで?」
「いえ、実はさっき」

 寿が話していた、繭香が友達と計画していたサプライズのことを、どうせ和成さんに喋ってもどこにも漏れやしないのだから、というよりもう漏れて一番まずいところには漏れてしまっているのだし、と洗いざらいぶちまける。そして、寿がそれをつい出来心で知ってしまって落ち込んでいることも。ところが、微笑ましいですよね、と笑うつもりだったのに、話が進むにつれて彼はなぜかむっつりと黙り込んでしまった。

「けっこう可愛いカップルになりそうな……和成さん?」
「…………」

 眉を寄せているので、傷が痛いのかと思ったがそうではないようだった。

「俺のあずかり知らぬところで、ほかの男と楽しくパフェなんて食べるんですね」
「え? あっ、別にそういうつもりじゃ……」
「分かってます、くだらない嫉妬だってことくらい。でも、気に食わない」
「……すみません」

 不愉快だ、とはっきり言われ、わたしは肩を落とす。軽率だった、寿とは言え、ほかの男の子との会話を面白おかしく話してしまうなんて。

「いいえ、俺の心が狭いのは承知の上です」

 つっけんどんに言いながら、パソコンを閉じて枕元に置いてため息をついて寝転がる。

「……人間は強欲ですからね。ようやく何かひとつ手に入れたと思えば次がすぐ欲しくなって、欲求はきりがないですから」
「……」
「心だけじゃ、足りない」

 さみしげにそう呟いた和成さんに、そっと手を伸ばす。ベッドのシーツと一体化していそう、そう思うくらい白く細い指に触れると、ぴくりと反応してこちらを見た。

「あの……明後日退院したら」
「……?」
「あ、でも、怪我に響きますかね……」
「……」

 言わんとしているところを、わたしの赤くなっていく頬で悟ったのか、彼の目が真ん丸に見開かれた。
 自分からこんなことを言うのが恥ずかしくて、わたしは適当にごまかそうと言葉をつないだ。

「や、やっぱり何でもないです。お医者さんも、安静第一って言ってたし。まずは怪我を治すことを考えないと」
「多英さん、いろいろ墓穴掘ってるの気づいてます?」
「……」

 二の句が継げない。自分でも薄々分かっていたからだ。
 羞恥に震えるわたしの手を、和成さんのあたたかい手が握りしめる。

「俺、多英さんのためなら痛いの我慢するんで」
「別にわたしのためじゃないです!」
「多英さん、ここ大部屋なので静かにしましょう」

 締まりのない笑みを浮かべている彼に、何かどうにか仕返ししたくて、ない知恵を振り絞る。
 絞って絞って、出てきたのはしょうもない言葉だった。

「…………優しくしてくれたら、いいです」
「……」

 拗ねたような顔になっている自覚はある。ふてくされている自覚もある。
 彼を喜ばせるような言葉ばかり吐いている自覚も、ある。
 案の定、和成さんは困ったように眉尻を下げ、反対に口角はゆるりと持ち上がった。

「多英さんは俺を殺すつもりですかね」

 握り込まれていた手が、更に強く締めつけられて、ほんの少しだけ、彼が苦しそうに息を吐いた。

「傷より、心臓が痛いです」
「……」
「どうしてくれるんですか」

 彼ばかり喜んでいるふうな、わたしばかりがそんな言葉を与えていると思うなら、それはとんだ間違いだ。
 わたしだって、あなたの言葉に心が、身体が細胞が喜んでいる。