身体に何か重たいものががかぶさって、それが重みを増して寄り掛かってきた。
「……?」
女の人の布を裂くような悲鳴が聞こえる。刺されるのって、思ったより痛くない……。そう思いながら、そろそろと目を開ける。
「……」
まず視界に入ったのは、街灯に照らされて深い紫色に光る髪の毛だ。それから、わたしは自分に覆いかぶさっているものの正体を知り、ほとんど無意識にその名を呼んだ。
「……かずなりさん……?」
コートもマフラーもしないままの和成さんが、座り込んでいるわたしを守るように抱きしめて、地面に膝をついている。腕が震えていて、寒いのかと一瞬馬鹿なことを思う。
「おい誰か救急車呼べ! あと警察!」
騒ぎ出した周囲の言葉にはっと顔を上げる。直毅がべったりと血のついたナイフを取り落とし、鈍い落下音が辺りに、からんからんと響き渡る。直毅は荒い息をついて呆然とこちらを見ている。わたしは転んだ打ち身くらいで大した怪我なんかしていない。じゃああの血は?
「オレは悪くない……」
ぶつぶつと何かぼやいてその場に立ち尽くしている直毅を、周囲にいた男性が複数人で取り押さえている。暴れる彼を酔っ払いが寄ってたかって地面に引き倒し押さえつける。視線をもう一度下げて、和成さんを見る。
深い青色のカーディガンの背中と腰の間、背中側の右わき腹の辺りから、何か染み出している。街灯に照らされたそれはどす黒い赤色をしていた。
「あ、あ……」
悲鳴にならないどころか、ろくに声も出せない。顔からすうと血の気が引いていく。
瞬く間にけたたましくなった喧騒を縫って、ひゅう、と隙間風のようなかすれた音がした。それは、彼の呼吸音だった。
「多英さん」
「……」
震える視線を、わたしに覆いかぶさる彼に向ける。真白の頬が引きつって、色のない唇がうっすらと開く。
「怪我、ないですか」
わたしの心配なんかしている場合じゃない。
自分の脆弱な呼吸を疎んでいるのか、痛みにか、和成さんが眉を寄せた。それから震える腕が伸びてきて、そっとわたしの頬を撫でた。
ざらついた、白樺の枝みたいな指。こんな雪の日にはふわりと溶けて消えてしまいそうなくらいに儚い。
「よかった、間に合って」
細かく痙攣している指が頬を拭って、それでわたしは自分が泣いていることに気がついた。
「……よく、ない……」
震える声で、ようやくそれだけ告げる。
何が、間に合ってよかった、だ。全然よくない。
「馬鹿なんですか、こんな、わたしなんかかばって……」
「……言ったでしょ、死ぬ気で守るって」
「ほんとに死ぬとは思わないでしょ!」
悪態しかつけない自分の口が恨めしい。ぼろぼろ泣きながら和成さんを抱きしめる。そうしないと、雪がこのままこの人をさらっていってしまいそうだった。
苦悶の表情を浮かべたままの彼が、こんなに寒いのに額に汗を滲ませて、唇だけで笑う。
「まだ死ぬと決まったわけでは……」
「そういうこと言ってるんじゃないです!」
いつにも増して顔に色がない彼を見ていると、ほんとうに死んでしまうんじゃないかと恐怖に襲われる。
ふと淡い色の瞳が細められたと思ったら、そのまま閉じてしまった。
「和成さん」
「……」
「和成さん!」
答えは返ってこない。まだ心臓の鼓動は、ひたりとくっついた身体から聞こえる。けれどそれがだんだん弱まって、間隔も開いていくような気がして、必死で彼を揺さぶった。
「目、開けて、和成さん」
わたしまだあなたに言っていないことがある。
お礼だって言っても言い足りないし、謝罪だってしてもし足りないし、それに何より、一番大事な言葉をまだ告げていない。
遠くから救急車のサイレンが聞こえる。早く来て、この人を助けて。
血はとめどなく流れているように感じるし、だんだんと抱いている身体が冷えてきたように思うし、何より生命の音がどんどん弱くなっていく。
無我夢中で名前を呼びながら、到着した救急車のストレッチャーに乗せられる和成さんを追いかけて、一緒に乗り込んだ。
呼吸器を取りつけられて応急処置をされるが、天気が悪い。雪で道が混んでいるのか滑るからスピードが出せないのか、なかなか救急車は病院には着かないようだった。サイレンが、耳鳴りに混じって遠くから聞こえるような、おかしな感覚だった。
「和成さん」
目を閉じた彼は、ぴくりとも動かない。薄くて細くてでも大きな手を、初めて自分から握る。荒れた指を絡めると、凍ったように冷たかった。
わたしはもう彼の名前しか紡げなくなった壊れたレコードみたいに、繰り返し繰り返し名前を呼び続けた。
「和成さん……」
この冷たい指を温めればきっと彼も目を開ける。そう、馬鹿みたいに信じてぎゅっと握りしめた。
この指が温かくなればきっといつものように、やわく握り返してくれる。ちょっと困ったような顔で、泣かないでって言ってくれる。そのチョコレート色の瞳で、優しくわたしを見つめてくれる。
そう思い込まないと、何よりもわたし自身が、この場に座ってすらいられなくなりそうだった。