「ちょっと、注文したのと違うんだけど」
「え、あ、申し訳ありません! すぐにお取替えいたします!」
気もそぞろ、とはこのようなことを言うのだろう。わたしは、和成さんに自分の気持ちを伝える方法を頭のどこかでずっと考えてしまっているらしく、普段ならしないようなミスを連発していた。
加えて今日は金曜日、客入りはピークで忙しさも普段の平日の倍ほど。わたしのしょうもないミスがことさら業務に響く。
「どうしたの、心ここにあらずって感じだけど」
「すみません!」
「とりあえずいったん休憩入って」
「すみません……」
鋭いため息を吐いたマネジャーによってバックヤードに下がらせられる。お客さんの手前大々的に叱られないのが逆に心が痛む。
ロッカールームで休憩とは名ばかりの自己反省会を開いていると、ふと窓の外を見てそれに気がついた。
「……雪だ」
そういえば、ネットの天気予報では夜から雪の可能性、と書かれていた。真っ暗な空が街の明かりに照らされて、細かい白い破片がビルとビルの隙間を縫うように舞っている。積もるほどでもないけれど、明日の朝の路面凍結には気をつけて、と書いてあった。和成さんの部屋にはテレビがないので、わたしは天気予報やニュース等の情報はすべてネットで拾っている。おそらく彼もそうしているのだ。
偶発的なこととは言え、建物の中で彼に待ってもらうことにしてよかった。こんな日に外でわたしを待っていたら、寒がりの彼は凍えてしまう。あの白樺の指が冷え切ってしまうこと、がたがたと震えながら立ち尽くしてわたしを待つ彼を考えると、こちらも申し訳ない。
はらりとほんの少しずつではあるが絶え間なく降りしきる雪を見ながらぼうっとしていると、バイト仲間がわたしを呼びに来た。
「多英ちゃん、休憩終わり」
「あ、はい」
「あれ? 雪降ってるんだ?」
窓際にいたわたしを見て、彼も目を丸くしてこちらまでやってきた。周囲の店のライトアップに照らされて白い欠片が舞い落ちるのを、彼はまじまじと見つめる。
「一応予報では出てたけど、ほんとに降ってきたみたいです」
「ああ、俺今日天気予報見てない。出てたんだ?」
「ちらつく、って」
「え。これちらつくってレベルじゃなくない?」
彼が窓を開ける。びゅう、と冷たい風が入り込んできて、雪が口に入る。窓から手を伸ばして雪に触れた彼は、ため息をついた。
「牡丹雪。こりゃ、傘なしじゃ帰れんな」
「傘あるんですか?」
「ない。うう、寒い……」
雪の具合を確認して、窓を閉める。ホールに戻りながら、彼はぶつぶつぼやいている。
「俺今日ラストまで入ってるけど、帰るまでに止んでねえかなあ」
「どうでしょう……明日は一日中雪か雨の予報だし、これから強まるんじゃ?」
「えっ、マジかよ……」
露骨に嫌な顔をするのに苦笑いして、オーダーを取りに向かう。
休憩を挟んだおかげか、それ以上大きなミスをすることもなく無事にバイトをラストまで終えたわたしは、ロッカールームで着替えて鍵番を頼まれて最後にそこを出た。
居酒屋のある雑居ビルを一歩出ると、空気が露出している頬を刺すようにうごめいた。頭やスヌードに雪がかぶる。ロッカーに入れておいた折り畳み傘を開く。路地の隙間を縫って鋭い音を立てて風が吹きすさぶ。
「う、寒い」
「多英ちゃん、駅まで送ったげる」
先ほどのバイト仲間が気を利かせてくれたのか傘に入りたいがためにか、そう言ったものの、わたしは申し訳なく思いつつ笑顔をつくって首を振る。
「すみません、友達とそこで約束してるので」
「あ、そうなの? 気をつけてね」
「はい、お疲れさまでした」
「お疲れ」
仕事仲間の背中が駅方面に消えていくのを見送り、わたしは反対方向へ歩きだす。この時間ともなれば、繁華街から少し外れたこの通りは、人がまったくいないわけではないけれど、やっぱりいつもより人通りは少ない。
カフェバーに向かっていると、ふと背後に気配を感じた。嫌な予感がぞわりと背筋を駆け抜けて、そっと、ぎこちなく振り返る。わたしがぜんまい人形だとしたら、油が切れてきちきちと音がしている。
「……直毅……?」
普段からは想像もつかないくらい真っ暗な、夜に溶け込みそうな服を身に着けた直毅が、少し離れた場所からこちらを見ていた。思わず、一歩、よろけるように後ずさる。
「多英」
わたしを追い詰めるように、二歩、三歩近づいてきて、彼は言う。
「おかしいだろ、急に電話着拒して、家行っても開けてくれねえし、なんなんだよ」
落ち着いた口調だが、その目だけはぎらぎらと燃えさかるように光っていた。
「しかも挙句の果てにあいつと一緒にいるし、なんなの? オレのこと馬鹿にしてんのかよ?」
あいつ、というのはたぶん、和成さんのことで、と思い当たったときに、彼が言っていたことを思い出す。高いプライドって、折られるとけっこう再起不能だったりしますし。
「だ、だって、先に希世と浮気したの、直毅じゃん……」
精一杯、相手の神経を逆撫でしないように小声で呟くが、逆効果だったようで彼は突然怒鳴り声を上げた。
「今そんな話してねえだろ!」
「っ」
きらり、と街灯の明かりに直毅の手元が光って、ぞっとした。果物ナイフのようなものをちらつかせている。
「なあ、多英、なんで逃げるんだよ」
よろよろと後ずさるわたしに、彼は怖いくらいの猫撫で声で言い含めるように囁きながら口元を歪ませて笑った。彼にはあまりにも不似合いな、薄気味の悪い笑みだった。
「お前あいつに騙されてるんだって。オレのこと好きだろ? 浮気のことは悪かったよ、でもオレはお前とやり直したくて……」
「やめてよ……もうわたし、直毅のこと好きじゃない、から……」
「嘘はいいよ」
周囲は酔っ払いばかりで、わたしたちの言い争いを単なる痴話喧嘩だと認識しているらしく、誰もまともに足を止めない。それどころかちょっと見て、それからそそくさと巻き込まれたくないと言わんばかりに去っていく。
カフェバーまではまだ距離がある。このまま走ればあるいは助かるかもしれないけれど、ちらちらと蛇の舌のように覗くナイフが足を動かさせてくれない。
「多英、今なら許してやるから」
なんであんたに許されなければならないの、被害者はこっちでしょ。
震える喉を使って、精一杯拒否の意を示す。
「……直毅、もうやめて……」
明るくて、ちょっと傲慢ではあったけれど気のいいお調子者で皆に愛されていた直毅を、わたしがこんなふうに変えてしまった。
一度でも好きになった人のなれの果ての姿に、涙が出そうになる。
こんなふうに、目をぎらぎらさせている人じゃなかった。取り繕うような笑みを浮かべる人じゃなかった。もっと感情豊かで、喜怒哀楽が激しくて、こんな卑怯なことをする人じゃなかった。
わたしが、変えてしまったのだ。
それでも、深い悲しみを覚えたけれど責任感にまでは行きつかなくて、わたしは逃げるようによろけてまた後ずさる。自分の身を守ることで頭がいっぱいだった。
「何でだよ……オレが一番多英のこと分かってやれるし、愛してるだろ……? あの男に何言われたか知らねえけどさ……お前のこと一番考えてるのは、オレだろ?」
「……違うよ……直毅はなんにも分かってないよ……」
恐怖にか、絶望にか、悲しみにか、怒りにか、涙が滲んで、あたたかい、と思ったけれどそれはすぐに外気温で冷たくなる。震える吐息が白く立ち上って、すぐには消えずに顔の周りに鬱陶しいくらいにまとわりついた。
わたしの言葉を聞いた直毅が、かっと目を見開いた。
「オレが何を分かってないんだよ!」
動かなかった足が、とっさに地面を蹴った。直毅が襲いかかってきたのを、本能が逃げようとしたのだ。
ナイフを振りかざしこちらに向かってくる直毅から逃れようと足がもつれる。完全に姿を現したその凶器に、ようやく辺りの人たちがざわつきだした。
天気が悪かった。アスファルトの地面を濡らしたうっすらと積もりかけた雪に足を取られ、手を離れた傘が宙を舞い飛んだ。滑った瞬間小さな悲鳴が口をついて出た。転ぶことによる痛みの覚悟より先に、直毅に追いつかれて何をされるか、そんな絶望が頭を支配した。
受け身を取ったものの、地面に投げ出されて腕や膝が痛みを訴える。
地鳴りのようなうめき声を上げて直毅がわたしにナイフを持ったほうの腕を突き出してくる。もう駄目だ、ぎゅっと目をつぶって、襲いくるだろう衝撃に備えた。
「…………!」