01

 もともと青白い肌が、輪をかけて青褪めているように感じる。病院の照明がそうさせるのか、彼の体調がそうさせるのかは不明だが、ともかくわたしはこんな場所に、ほんとうはいっときもいたくなかった。
 お尻がむずむずして椅子にも座っていられないくらいに落ち着かない。でも、ここで帰るわけにはいかなかった。

「……わたしのせいです」

 うなだれたわたしを、和成さんは頬を指で掻いてじっと見つめ、黙っている。

「ごめんなさい……」

 情けなさに涙が滲むが、ここでわたしが泣いていいはずがない。怪我をしたのは和成さんで、直毅を煽ってしまったのは間違いなくわたしだからだ。
 もしかしたら、わたしがもっとうまく彼を説得できていれば、ナイフの出番はなかったかもしれないし、彼をあんなふうに激昂させることもなかったかもしれない。そうすれば結果として、和成さんが怪我をすることもなかった。
 だからわたしが泣いていいはずがない。
 唇を噛み締めて我慢する。戸惑うように、彼にしては珍しく揺れた声がわたしの鼓膜を震わせた。

「……多英さんにそんな顔させたくて身体張ったわけじゃないんですけどね」
「っ」

 じゃあどんな顔をしろと言うのだ。笑って、助かりましたありがとう、とでも言えばいいのか。そんなの違う。
 でも、もちろん彼が言っていることの意味も分かった。誰かを助けて、こんな辛気臭い顔をされては助けたかいもないだろう。だからわたしは何も言えずに、ただひたすら泣かないように歯を食いしばる。

「というか、まあ何も考えてなかったのが事実ではありますが……。何か考える前に身体が動いてたんですよ。多英さんに向かって彼がナイフを振りかぶっているのを見たとき、頭が真っ白になった」
「……」
「それで……気づいたらおなかが痛くて、多英さんが名前呼んでくれてるのは聞こえてたんだけど、ちょっと眠くなった」
「……ごめんなさい」

 だから、と和成さんはため息をつく。

「謝らせたいわけじゃないんですよ。ありがとうが欲しいわけでもないけど」

 眠くなった。と彼はあっけらかんと言うけれど、実はあとわずかでも搬送が遅れたら危険な状態だったと医者は言った。あの日は雪で道も悪かったし、その可能性はじゅうぶんにあったのだ。
 そこそこ刃渡りがあったためか直毅の腕の力に勢いがあったのか、傷は内臓にまで達していて、傷を縫合する手術のあと和成さんは二日間ぶっ通しで眠っていた。この期間中、わたしがもし彼がこのまま目を覚まさなかったらと何度不安に駆られただろう。点滴の細いチューブが彼の命をつないでいる、その事実がどれほどわたしを心細くさせたか、彼はきっと知らない。
 昨日は、彼の故郷からお母さまとお姉さまが来た。わたしが事情を説明すると、彼女たちはきょとんと、失くしたはずの持ち物が意外なところからひょいと出てきたのを見つけたような顔をしてこう言ったのだ。

「……和成が……女の子を助けた……?」

 生死の境はさまよってはいないがこうして痛々しい姿で眠っている息子と弟にその言い草はないだろう、と思ったものの、事情はけっこう複雑らしい。

「和成は昔から他人に無頓着というか、どこか一歩引いてるというか、そういう子なのよ。協調性もあったし仲のいい子ももちろんいたけど、その子が好きなふうにも見えないし、私たち家族にも、この子の周りには薄い膜が張られてるのが見えるようだった。こんなこと言ったら変かもしれないけど、私たちとは違う世界を生きているようなね」

 言わんとしていることは分からないでもなかった。薄い膜、という表現は言い得て妙だ。何せ、寝食を共にしている今ですら、わたしは彼がサラダボウル一杯分の霞で日々をしのいでいると信じている部分がある。

「細くてよわっちい見かけだから柄の悪い男の子に絡まれることもけっこうあって、喧嘩して一方的にやられて帰ってくることもしょっちゅうだったし、悪いときはお金巻き上げられたりもしてたの」

 カツアゲされていた和成さんの姿が浮かぶ。

「でも、根が強い子だから、悪い子たちのおもちゃになることはなかったね。いつも殴られようがお金盗られようが、他人事みたいな顔して飄々としてた。飼ってたカブトムシ以外に興味がないって言ったらおかしいけど、そんな感じで。だから大学で心理学勉強したいって言ったときはこいつ何言ってんのと思った」

 たしかに、こいつ何言ってんの、という台詞に一番ふさわしい行為にも見える。

「でもねえ、何だかんだこの子見ててようやく納得した。この子、ほんとうに他人に興味がないんだって」
「……どういうことですか?」
「心理学って、他人をよく観察していないと答えの出ない学問じゃない。でも、この子が観察してるのは他人の性格やしぐさであって、その人本人じゃないのよ。学問っていうフィルターかけて他人を見るって、その人本人の本質を見ることにはならないの。心理学って統計学みたいなところもあるでしょ? この子は統計を取りたいだけで、その人本人を知りたいわけじゃないのよ」

 納得できるようなそうでないような母親である彼女の理論を、所詮心理学に詳しくないわたしが論破及び和成さんの弁護をすることはできなかった。
 穏やかな血の気のない顔ですやすや眠る和成さんの頬を撫で、彼女たちはこちらにもう一泊していくことをわたしに告げた。

「だから未だに私たちには信じられん。和成が女の子を助けて怪我をしたなんて」
「で、でも、和成さん、わたしにすごくよくしてくれて……」
「何か思うところがあったんじゃないかなって私たちは邪推してしまうけどね」

 肉親にそうまで言われる和成さんって、何者なのだ。
 和成さんが目を覚ましたので、彼女たちに連絡を入れた。小一時間前までは彼女たちはここにいたのだ。
 家族だけのほうがいい、という建前を使ってわたしは病室には入らなかった。だから、彼らがどんな会話を交わしていたのかは、分からない。

「散々嫌味言われましたよ」

 彼女たちが病室をあとにしてからわたしが入ると、開口一番和成さんはうんざりしたようにそう言った。

「お前が女の子を助けるなんて明日空から鯨が降ってくるに違いないと予言されました」
「……」
「刺された息子をちょっとは心配しようっていう気持ちがないんですかね」

 そのときには、わたしは申し訳なくて顔を上げることがすでにできなかった。
 ありがとうが欲しいわけでもない、そう言った彼は、今にも泣き出しそうな顔をしているのだろうわたしを見て、視線をわずかにうろつかせて再びのため息をついた。