03

「すぐ戻ってくるので、絶対ここで待っててください」

 転がしたファイルを拾い集め、彼が釘を刺すようにそう言い残して去っていくのを見つめる。
 よっぽどこのまま帰ろうかと悩んだけれど、どうせ帰る場所も同じで、彼の不興をこれ以上買いたくなかったわたしは、おとなしく十二号館の入口で待つことにした。
 それにしても寒い。吐いた息がすぐに白い水蒸気になって飛んでいく。その白さが面白くて、自分でわざと力を込めて息を吐いたり、続けざまに吐いたりして遊んでいると、くすくすと笑い声が聞こえた。

「……」
「楽しそうですね、続けて」
「……続けません」

 コートとマフラーを着込んで鞄を提げ、片手をポケットに突っ込んで和成さんは微笑ましげにしている。
 見られていた。顔が熱を持つ。
 恥ずかしくなって、彼がとなりに来るのを待たずして歩きだす。けれど身長の違いは歩幅の違いである。すぐに追いつかれた。
 帰り道、彼は何も聞かなかった。わたしが不機嫌になっていた理由を、何も。
 なんだかすごくばつが悪くなって、でも今更あの女性に嫉妬したんだなんて言えなくて、わたしも何も言わなかった。
 そう、あれは紛れもない、嫉妬だった。

「多英さん、今日バイトでしたっけ?」

 何事もなかったかのように、彼がふと話題を振ってくるので、わたしもまるで何もなかったかのように返事をして、それで重苦しい空気はおしまいになってしまう。

「はい、今日は夕方からラストまで」
「帰り、迎えに行きます」
「……それなんですけど」

 言いづらい。それでも切り出すと、彼の顔がきょとんとした。

「あの、バイト先の上司が、厳しくて……彼氏が過保護すぎるなって言われちゃって……」
「彼氏じゃない」
「今問題なのそこじゃないんです。とにかく、ラストだとほかのスタッフも帰りかぶるし、迎えに来てもらってるの見られたら、嫌味言われる……」

 和成さんが考え込む。わたしの世間体と安全を秤にかけている顔だと、容易に想像がついた。

「……分かりました。じゃあ、居酒屋のビルのちょっと先に、カフェバーがあるじゃないですか、そこで待ち合わせしません?」

 たぶん、深夜の二時くらいまで開いている、あそこのことを言っている。それなら、居酒屋からは少し離れているし、駅とは逆方向なので、問題なさそうだ。

「すみません、気を使わせてしまって」
「いいえ。俺のほうこそ、相手方が事情を知らないとは言え過保護だと思われていたとは」

 髪の毛をもてあそびながらため息をつく。
 和成さんの家の居候になってから、ストーカー行為はぱったりと止んでいる。かと言って安心しているかと聞かれるとそうでもない。
 ひとりで歩くのは、特に夜道は怖いし、人の視線がやたらと気になってしまうし、和成さんはネットで書籍を買うことが多いのだが、その配達のチャイムにどきりとすることもある。彼の部屋は二階だけれど、いつ寝室の窓ガラスに人影が映るだろうとか、どうしてもそういうことを考えてしまう。
 だから正直、迎えに来てくれるのはほんとうにありがたいし感謝している。
 バイト先には、ストーカー被害に遭っていることを言っていないので、マネジャーの反応もある意味当然ではあるのだが。

「あ、俺も今日バイトだった」
「え? 曜日違いません?」
「もうすぐ受験なので、臨時で授業を増やしてるんです」
「あ、そっか」

 二月の頭だ。大学受験もいよいよだし、高校受験もそろそろだ。

「……その子たちが受からないと、やっぱり和成さん……」
「評価は下がりますね」
「ええっ」
「俺の授業受けておいて落ちるとか、絶対許しませんけど」

 ちらりと、スパルタ教師の片鱗が垣間見えた。そこまで自分の授業に自信を持てるなんて、うらやましい。
 でもたしかに、彼に何かを教えてもらったことはないけれど、普段から分かりやすい口調で喋ってくれるし、難しいことを易しく言うのに長けている印象はある。

「和成さんの授業はとても分かりやすそうです」
「そうですか?」

 頷くと、少し照れたふうに笑い、でもね、と言葉をつなぐ。

「でもね、俺たち教師はきっかけでしかないんです。どれだけ勉強に興味を持たせられるか、どれだけ自発的に学習させるか。俺たちが教えるのは勉強の内容じゃなくて、方法ですから」
「……方法」
「生徒の側が吸収する体勢でいないと、いくら頭ごなしに英文読ませて数式解かせても暖簾に腕押しです」

 わたしが受験生のときに通っていた塾の講師を思い出す。頭ごなしに英文を読ませ数式を解かせるタイプの教師だった気がするが。

「……わたし、和成さんみたいな先生の授業受けてたら、もっといい大学入れてたかも……」
「それは俺が困ります。多英さんと出会えなくなっちゃいますので」

 悪戯っぽく笑い、アパートが近づいてきて鍵を取り出す。わたしは、それに何か気の利いた言葉を返すこともできなかった。
 電気をつけると、相変わらずのたくさんの段ボールたちが迎えてくれる。彼に聞いたところ、何年か前の引っ越しの際に梱包した荷物を未だに荷解きしていないのだと言う。必要なものがあれば段ボールの海原を探り、必要でないものは捨てることもせず放置してあるのだと。
 それに加えて、無差別なジャンルの本の山が積まれていて、何に使ったのかよく分からないコピー用紙もそのまま、銀行等からの重要と思われる親展の手紙も封を切らずそのままで、この部屋はとにかく雑然としている、というわけだ。

「じゃあ、俺先に出ますけど、行き、気をつけて」
「はい、行ってらっしゃい」

 口元が笑みのかたちに歪められ、マフラーをしっかりと巻き直し彼は出て行った。
 ぽつん、とひとり家に残されるのがなんとなく怖い。暖房がついていてあたたかいけれど、フローリングはひんやりしていて、電気がついているのに暗く感じて。
 とりあえず紅茶でも飲もうとしてお湯を沸かす。そそぎ口の細いやかんにたったひとり分のお湯はすぐに沸いた。
 熱くて飲めない紅茶をテーブルに放置して、わたしもバイトに向かう準備をする。
 窓ガラスを業者さんに直してもらって、一応わたしの家は元の体裁を保ってはいる。荷物もまだほとんどが向こうにある。けれど、もうあそこに引っ越しの用意以外で入ることはないだろうなと思っている。せいぜい、ポストの中身を確認しに行くくらいだろうなと。
 必要最低限の日用品と服を旅行バッグに詰めてこちらにお邪魔して、もう一週間以上経つけれど、こんなに少ない荷物で自分が生活できると思っていなかったので驚いている。もちろん、家電や設備が整っているからというのも大きいが、個人の荷物はこんなに少なくてもどうにかなるんだな、と呆気なく感じた。
 バイトに向かう準備を終えたところで、すっかり放置していた紅茶の存在を思い出す。
 カップに触れると、ちょうどいいくらいの熱さになっていた。すすりながらソファに沈み込む。

「あ……時間」

 壁掛けの電波時計を見て、あまりのんびりしていられる時間でないことを悟り、慌てて飲み干してカップを洗う。それから鞄を掴んでばたばたと家を出た。
 そういえば、和成さんはわたしが生活費としてお金を払うのを嫌がっている。
 そういうところが、こどもに見られている気がして、どうにも対等を感じられない。彼にとってわたしは、守る対象でそれ以上でも以下でもない気がしてならない。
 好き同士ならもっと、対等で、守られるだけじゃなくて守って、同じ目線で物を見て。
 そこまで考えて、ふと歩いていた足が止まる。ため息をついた。
 対等になりたい、なんて。やっぱりわたしは和成さんが好きなんだ。
 でも今更どう伝えればいいのだ。好きだって、どんな顔をしてどのタイミングで口にすればいいのだ。
 以前彼は、返事は急がないと言った。けれどいくら何でも待たせすぎたのではないだろうか。わたしが今更と思うのはともかく、彼にもそう思われていたらと考えると怖かった。
 こういうことって、機を逃すと駄目になっていくんだな、とひしひしと感じながら、わたしはバイト先までの道を急いだ。