02

 先生の都合で日程が押しに押した最後のテストが終わって、わたしの足は十二号館に向かっていた。というのも、和成さんが一緒に帰りたいと言ったので。
 と言ってしまうと、和成さんの希望をわたしがしぶしぶ叶えているようだが、実はそうでもない。ちょっとだけ心が浮き立っていた。
 結論から言うと、彼との同居は順調だった。わたしは、初めて泊まった夜に彼に言われたことをすっかり忘れてまたも覚悟を決めていたので、彼に少し怒られた。

「こうなってくると、意地でも手を出せないですよね」

 そう言って、家主は和成さんなのに、と渋るわたしの反対を押し切り、わたしが寝室で、彼がソファで眠ることになった。反対にならなかった理由は、早起きな彼が寝室から起きてきたときに無防備なわたしを目に入れたくないと言ったからだ。
 彼はわたしよりもずっと遅く寝ているようなのに、朝わたしが起きるとすでにたどたどしい手つきで朝食をつくっている。
 特に寝不足や苦痛を訴えていないので、睡眠時間が短くても問題のない人なんだと思う。ひょっとして、わたしにそういった弱味を見せないようにしているだけなのかもしれないが、そういうのはふとしたときについ見えるものだと思っているので、長時間一緒にいるわたしに隠しおおせるとは考えていない。
 二月が始まって少し経つけれど、今が一年で一番冷え込む時期だと思う。曇り空を見上げる。夜から雪がちらつくらしい。
 コートの前を掻き合わせ、スヌードに顎まで埋める。ブーツのヒールがアスファルトを小気味よく叩いている。
 十二号館の前で、平常心を保てるよう深呼吸した。
 今朝、ちょっとした事件というか、事故というかそのようなものがあったせいだ。
 わたしのテストの時間割に合わせて一緒に家を出てくれた和成さんと横断歩道を渡っていると、赤信号のはずなのにふらふらと軽自動車が車線をはみ出してきたのだ。それに気づかなかったわたしを間一髪で、和成さんが慌てて引き寄せてくれた。
 そこまではよかった。
 その弾みで、わたしは彼を押し倒すように地面にもつれ込んでしまったのだ。
 もちろんすぐに謝ってどいたけれど、彼は何も気にしていないようだったけれど、わたしのほうは恥ずかしくてそのあと目も合わせられなかった。
 それを思い出してしまうと、もうそれから何時間も経っているのに未だに彼とうまく目を合わせられなさそうで、それでの深呼吸だ。

「よし」

 和成さんは大して気にもしていないのだから、大丈夫。そう言い聞かせ、扉を開ける。通路の向こうに和成さんが立っているのを見つけて、声をかけようとしてとっさに思い留まった。
 いつもの、白シャツにカーディガン姿の彼は、わたしに背を向け、分厚いファイルを抱えている。その向こう、ちょうどわたしと対面する位置に女性が立っていたのだ。
 年齢的に、彼と同じくらいに見えるので、院生かなと思った。緩やかなウェーブを描く暗い茶髪をサイドでひとくくりにし、眼鏡をかけている。
 少し遠いために何を話しているのかまでは分からないが、やけに楽しそうだ。彼の背も時折笑うように揺れている。

「……」

 ふと彼女の手が和成さんの肩に触れた。彼も、それを拒むでもなく受け入れる。
 ぶわりと、心臓から黒いものが噴き出してそのまま身体中に回ってしまう感覚だった。肺がそれに浸蝕されて、息も苦しいような。
 和成さんは、イケメンでも男前でもないし、しいて言えば美形、というくらいの人なのだが、たぶん女性受けはいい。知的だし、品がいいし、丁寧で物腰がやわらかくて穏やかで。それに、なんとなく放っておけない儚さや、人によっては世話を焼きたくなってしまいそうなどんくささだってある。
 わたしだけがそういうものを知っているのだと、思い込んでいたけれど。でも違う、彼には彼の生活があって、そこには当然ああして女性も存在していて、彼の世界はわたしだけじゃない。
 もちろんわたしの世界だって彼だけじゃないのだけれど、でも今はそれに近い感覚がある。少なくとも、彼中心であることは間違いない。
 入口で突っ立っているうちに、いつの間にか彼らは雑談を終えたようで、女性がそのまま階段を上っていく。それを見送って、和成さんがくるりとこちらを向いた。
 慌てて隠れようとしたが、その前に気づかれた。

「多英さん」

 よく見ると、重たそうなファイルを三冊も抱えている。よたよたと近寄ってくる彼に、わたしはどろどろしたものをそのままぶつけてしまいそうで、思わず俯いた。

「あの、これだけ資料室に戻したら、すぐ支度するんでちょっとだけ待っ……多英さん?」

 恥ずかしい。驕った思い違いも、こんな醜い感情も、気づかないままでいたかった。
 俯いたまま返事もしないわたしに、和成さんが気遣わしげに膝を曲げて覗き込んでくる。

「具合悪い? 研究室、今教授いるんですけど、ソファで休んでいかれます?」
「……」

 目を合わせられないのは、決して朝の出来事が照れくさいからではなかった。
 涙が滲んだ。それを和成さんは見逃してくれなかった。

「どうかしました? 何か、ありました?」

 ぐっと奥歯を噛み締める。ショルダーバッグの紐を抱いて、彼を睨みつける。

「別に何でもないです」
「多英さん……?」
「……帰ります」
「えっ、待って。すぐ終わるから」
「帰ります!」

 勢いよく踵を返して、歩きだす。慌てたような声でもう一度名前を呼ばれ、一拍遅れて追いかけてくる気配がした次の瞬間、どさっとすごい音がした。
 ほとんど反射で振り返って、後悔した。

「…………」
「い、たた……」

 今までにないくらい派手に転んだ和成さんが、情けないうめき声を上げながら、ファイルに鼻をぶつけたらしくことさらそこをさすりながら起き上がるところだった。

「……何してるんですか……」
「いや……思いのほかこれ重量がすごくて……」
「見れば分かるじゃないですか! 過積載なんですよ! 転ぶのなんて目に見えてたでしょ!」
「……なんで怒ってるんですか?」

 憮然とした面持ちでそう尋ねられ、わたしは言葉に詰まった。ひどく悲しそうなそのチョコレートの瞳に、きっと醜いわたしが映っている。
 へたり込んだまま、突っ立っているわたしを見つめ、それからようやく立ち上がった。

「言ってくれなきゃ、分かりません」

 薄い生気のない唇を尖らせて困ったようにそう呟かれ、ますます惨めな気持ちになる。

「ね、多英さん。言って」

 この人は、たったいくつか年上なだけなのにこんなにも大人で、それに対してわたしは、ちょっと彼の世界を垣間見たくらいで拗ねて、みっともない。

「……別に、大したことじゃないので……すみません……」
「……」

 ため息が降ってきて、とうとう見放されたかと身体が引きつった。けれどそれは一瞬の杞憂だった。
 細い骨張った手が、わたしの頭を数度撫でる。ちょっとだけ乱暴に、髪の毛を掻き乱すように。

「何をしでかしたのか皆目見当もつきませんが、俺に怒っているのは分かります」
「……」
「話せるようになったら、言ってください」

 どこまで優しいのか、今はそれすら腹立たしくなってしまって。
 自分がほとほと嫌いになる。こんな女のどこが、彼はいいのだろう。