03

「……え?」

 かろうじて、え、という音が零れ出る。ぽってりと厚い希世の唇が矢継ぎ早に言葉を繰り出した。

「麻生先輩、最近授業も出てないしテストもばっくれたらしい。あたしも確証ってか証拠はないんだけど、知り合いの話じゃ最近付き合い悪いし態度もおかしいみたいで。多英、麻生先輩の携帯着拒しなかった?」
「……した」

 でも、それはストーカーの存在が明るみに出るより前の話だ。……いや、前だから?

「多英に着拒されたってかなり怒ってたし、麻生先輩プライド高いからそれが裏目に出たのかも」
「ま、待って」

 思わず、希世の話を制止する。

「でも、希世、直毅と付き合ってるんでしょ? なんでわたしに着拒されたからって」

 そこで、希世は自嘲的に笑った。コートも脱がず鞄も腕にかけたまま、希世は窓ガラスが割れているせいで暖房もかけられない室内で寒いだろうに、頬を紅潮させていた。
 ややあって、彼女はそっと早口で言い訳のように言葉を紡ぎ出した。

「ごめん。多英には見栄張って寝取ったみたいなこと言ったけど。麻生先輩は多英と別れるつもりなんかなかったんだよ」
「どういうこと?」
「あたしは、都合のいい浮気相手だったってこと。麻生先輩は多英と関係修復したいみたいだった。だから、あたしが勝手に多英にばらしただけ」

 希世に打ち明けられたときのことをふと思い出す。自分で落とし前もつけられない男が希世を幸せにできるはずない、と思ったけれど、そうではなかった。彼は、そもそも落とし前をつけなければいけない事態に発展したことを、希世が自分との関係をわたしにばらしたことを、知らなかったのだ。
 いわゆる、不倫相手が夫に秘密で妻に連絡を取るような、そういう手段で希世は、わたしから直毅をどうにか奪おうとしただけなのだ。

「ごめん……あたし、多英も麻生先輩も失ってから気づいたけど、男より友達のが大事だ」
「……」

 じゃあ、今までの絡みつくような視線もチャイム攻撃も気味の悪い手紙も非通知着信もこの空き巣も、すべて直毅が犯人だというのか。
 あまりにも近すぎる人間の犯行である可能性を提示され、わたしの身体がぶるりと震えた。

「多英がストーカーっぽいことされてるのは、寿くんから聞いてたの。寿くんは、悪戯だろって、多英の気のせいだって言ってたけど、もしほんとなら、麻生先輩だって思ったから伝えておこうと思ったけど……一歩遅かったんだね、あたし」

 部屋を見渡して、希世がため息をついた。

「こんなことになるなら、多英が怒ってるかもとか尻込みせずに、ちゃんと話すればよかった」

 にわかには信じがたい希世の告白にせめてもの抵抗をする。

「でも、直毅がって確定じゃないでしょ?」
「もちろんそうだけど……可能性は大」

 まさか、何かの冗談だ。直毅はそんな卑劣なことをする人間じゃない。たしかに、プライドが高くて傲慢で、自分の思い通りにならないとすぐイライラするような奴ではあったけれど。少なくともねちっこいとか、そういうストーカーの典型のような性格のはずではなかった。

「ところで……今の平野さんって人」
「え、ああ。ストーカーのこととか、いろいろ相談してるの。すごく頼りになるよ」
「ふうん……あの背格好じゃとても頼りになりそうにないけど」
「あはは」

 思わず吹き出すと、希世も、どこかほっとしたように笑った。

「よかった。多英があたしに笑ってくれて」
「え」
「もう一生目も合わせてくれないと思ってたから」

 それはこちらの台詞だ。希世は真面目だからいつまでも直毅のことを気に病んで、わたしともうこうして話してはくれないと思っていた。
 希世に対する怒りなんて、もう消え失せた。そもそもあまり怒っていなかったというのもあるけれど。だから、わたしはこうして希世と、話題が何であれまたこうして話せることはうれしかった。

「ねえ、希世」
 手持ち無沙汰に雑巾をもてあそびながら、わたしは希世の名前を呼ぶ。割れた窓ガラスを見ていた希世が、視線をこちらに向けた。

「またこうやって、話したり、どっか行ったり、一緒に授業受けたりしてくれる?」
「……」

 わたしの精一杯の甘えに、希世が目を潤ませた。

「……馬鹿じゃないの!」
「わっ」

 思いきり抱きつかれ、数歩よろける。受け止めて、首筋にしがみついてくる希世の背中を軽く叩いて撫でる。

「多英はほんとお人よしだよね! 彼氏の浮気相手、こんな簡単に許しちゃってさ! あたし調子乗るかもしれないよ!」
「ははは……少なくとも、直毅よりは希世が大事だよ」
「……平野さんとなら?」
「え?」

 予想だにしない名前がいきなり希世の口から飛び出して、わたしは戸惑って抱擁を解いた。まなじりにうっすら涙を滲ませている希世が、真面目な顔でこちらを見ている。

「あれ? 彼氏じゃないの?」
「ち、違うよ!」
「えっ……そうなの?」

 ドアのほうを振り返り、希世は首を傾げて何かもの言いたげな表情をつくった。