01

 希世を見送りにドアを開けると、ドア横の壁にもたれかかるようにして、和成さんが立っていた。
 わたしたちを見ると壁から背中を離し、希世に向かって口だけでかすかに笑う。

「お話、終わりましたか?」
「あ、はい。ごめんなさい、こんな寒い中待たせて……」
「いえ。それはいいんです」

 何か言いたそうな顔をしている、と思ったものの、希世はそれには気づかなかったようで質問を重ねた。

「あの、平野さんって多英と付き合ってるんじゃ?」
「え?」

 虚を衝かれたふうに目を見開いた。薄いチョコレート色の瞳が零れんばかりだ。
 ややあって、彼は髪の毛を耳に掛けてそのまま耳朶の裏を人差し指で掻いた。

「そうならよかったんですけどね」

 女の子にそういう話題を提供してはいけないということを、彼はこれまでの人生で学ばなかったのだろうか。希世の表情が一気に明るくなる。

「やっぱり、平野さんは多英のこと好きなんですよね?」

 和成さんが沈黙する。表情は読めない。無表情で希世を見つめて、それから首を傾げた。

「そうですね。好きですよ」

 あっけらかんと口に出され、わたしのほうが照れてしまう。唇を噛み締めて恥ずかしさに耐えていると、和成さんが畳みかけた。

「でも、なんか、いまいち伝わってないみたいです。俺の本気度」

 そんなことはない。とは言えない。つい先日まで、その軟派さのおかげで本気にしていなかったのはたしかだからだ。それに今だって、どれほどのものか測りかねているところはある。

「伝わらなくても、いいんですけどね」

 ぽつりと呟きを落とした彼に構わず、希世は目を爛々と輝かせながら更に言った。

「多英の、どんなところが好きですか? 何がきっかけ? 出会いは?」
「……」

 そこで和成さんがようやく、おや、と言うように眉を上げて面倒事を察知したような顔をした。首筋に置いていたままの指で今度は頬を掻く。

「そういうのは他人にぺらぺら喋ることじゃないですよ」
「ええ? 言えないんですか?」
「安い挑発には乗りません」

 飄々と希世の攻めをかわし、ちらりと腕時計を見る。唇が、あの字に開かれた。

「そろそろバイトの時間なので……」

 それを機に、ほとんど強制的に希世の質問は打ち切られた。和成さんがわたしのほうを振り返る。

「多英さん、今日バイトありますよね?」
「あ、はい、夜から」
「上がりの時間に迎えに行くので、俺から連絡あるまで居酒屋出ないでください」
「え、でも」

 そこまで過保護にしてもらわなくとも、と思ったところで、またも横槍が入ってきた。

「ほんとは付き合ってるでしょ?」

 にやにやと頬を緩めて、希世はわたしの肩をつついた。何も言えない。和成さんの過保護ぶりは、してもらっておいて何だがおそらく目に余る。俯くと、想定外の方向からも槍がわたしをつついた。

「否定しないんですね」

 慌てて顔を上げれば、目を真ん丸くした和成さんがわたしを見ている。色のない頬がほんのわずか緩んでいるのを目の当たりにして、わたしはひどく動揺した。

「あのね、平野さん」
「なんでしょう?」
「あたしが言うのも何ですけど、多英は普段は格好いい女の子だけど、ほんとうは繊細で、すごく優しいから、だから大事にしてあげてくださいね」
「……」

 希世にそういうふうに思われていたのが、無性に恥ずかしい。できるだけ、友達の前では格好つけていたかったのに、脆い心のうちを見透かされている。
 和成さんは少し黙して、ふと笑う。

「あなたに言われなくとも、俺は俺のやり方でちゃんと大事にしてますよ」

 大事にされているのは肌がぴりぴりするくらい、痛いくらいに感じている。俺は俺のやり方で、というのがどういうことなのかは、分からなかったけれど。

「さ、俺はバイトだし、あなたの用事も済んだでしょう。解散」
「ちぇっ……多英、また話聞かせてね」

 無理やり話を切り上げる。希世は少し名残惜しげにわたしたちを見て、数歩後ずさってくるりと踵を返す。

「じゃあね、なんかあったら、いつでも言って」

 軽快な動作で階段を下りていく希世を見送ってから、ちらり、と和成さんを見た。すると、彼のほうもわたしを見ていたようで、視線が絡む。

「仲直りしたんですか?」
「……まあ」
「多英さんって、お人よしですよね」
「希世にも、それ言われました。でも、そもそもあんまり怒ってもなかったので」

 お人よし、という言葉になんだかいい印象がないので、ちょっと唇を尖らせる。お人よしって、大概悪い意味で使われる言葉だ。

「別に揶揄してるつもりじゃないですけどね。優しいって、言われてたでしょ。その通りだなって」
「優しいのとはちょっと違うと思うんですけど」

 ふてくされて言うと、彼はわずかに声を出して笑う。

「いいんですよ、本人が本人の良さを一番分からないのは仕方ないです」
「……」

 どちらからともなく歩きだす。和成さんの自宅に向かっている、と気づいたのは電車に乗ってからだ。そういえば彼は必要最低限の荷物以外持っていないようだし、バイトは家庭教師だし荷物が必要なのか、と納得する。

「そういえば、これ」
「……?」

 和成さんが何かを差し出す。条件反射で受け取って、それが鍵であることが分かる。
 どこの鍵であるか、何となく予想がついていながらも見上げると、大きな唇が弧を描いた。

「俺の家の鍵です。これから、しばらく入用でしょ?」
「……ありがとうございます……」
「あまりうれしくなさそうだ」
「そ、そんなことないですけど」

 恋人でもない男性の家の合鍵は、わたしに当然戸惑いを与えた。これを受け取る資格がわたしに果たして備わっているのか、ということや、和成さんをぬか喜びさせてしまうんじゃ、という思いが頭をよぎる。
 指先で鍵をつまんだまま、腕を引くことも和成さんに突き返すこともできずに固まっていると、彼はわたしの指をそっとその白樺の指で包んだ。

「俺を利用してください。利用し尽くしたら捨ててもいいです」
「そんなの」
「まあできれば契約延長、報酬上乗せがうれしいですけど」

 やわらかに目を伏せて、儚げに微笑んだ。たまらなく胸が締めつけられて、その原因を探ろうと頭が熱を持つ。
 ただ、その答えを見つけてしまえばわたしはどうにもできなくなってしまいそうで、無理やり思考停止させた。

「……希世が」
「ん?」

 和成さんの前で直毅の名前を口に出すのはすごく気が引けるのだけれど、伝えておかなくてはならない。

「希世が、ストーカー、もしかしたらわたしの元彼かもって」

 チョコレート色の瞳がわたしを凝視した。若干品定めされているようなその淀みのなさに、気後れして今度はわたしが目線を下に向ける。

「やっぱりその話でしたか」
「……え?」

 含みのある口調、そしてやっぱりという単語に、頭を鈍器で殴られたような衝撃が走る。

「ひとつの可能性として、潰せないなとは俺も考えてたんです。事例としては少なくないです、元恋人がストーカーになるっていうの。別れ方がうまくいかないとそのパーセンテージってぐっと上がるんです。一方的に別れを告げるだとか、別れ際に揉めるとか」

 直毅からすれば、わたしが一方的に彼を突き放したように見えたのだろうか。先に裏切ったのは自分なのに。

「別れたあとにストーカーになる人間って、粘着質だとか内向型だとかいかにもっていう性質よりも、自尊心が強いとか、意外と表面上はふつうの人に見えるパターンが多くて。高いプライドって、折られるとけっこう再起不能だったりしますし」

 てっきり、バイト先や大学で粘着質な男に目をつけられたのだと思っていたが、違ったのか。希世には悪いが、彼女の口から聞くよりも真実味があって、背筋が冷える。

「たぶん、思い込みの激しい理想の高いタイプだったんでしょうね、彼」

 和成さんはきっと、わたしの恋人のことも知っている。思い出すようにもの思わしげに視線をめぐらせる彼に、身体がひんやりと冷たくなっていった。

「会って頼んだら、やめてくれますかね……」
「いやもう、空き巣に入るくらいになってるんで常識通用しないところまで来てるでしょうね。警察も、一応目はつけてくれてるとは思いますし、何の反応も示さないでいるのが一番かなと」

 彼の自宅の最寄駅に、電車が滑り込む。電車を降りて、わたしは沈んだ気持ちを浮上させることができずに黙っていた。それを察しているのか、彼も黙っている。
 ふと、彼の手がわたしの指に触れた。そのまま、きゅっとやわらかく包み込まれる。

「大丈夫。多英さんのことは、死ぬ気で守ります」

 思わず顔を上げると、彼はのほほんとした表情でたしかに、揺るがない決意を秘めた瞳をしていた。
 今までの行動をかえりみて考えても、彼はおそらくそれこそ死ぬ気でわたしを守ってくれるだろう。きっと、わたしがどこにいても駆けつけて抱きしめてくれるだろう。
 それでいいのだろうか。
 わたしにも、何か彼にできることはないのだろうか。頭の中であらゆる案をまさぐってみるも、どれもいまいちぴんとこない。

「じゃあ、俺バイト行ってきますけど、何かあったらすぐ電話して」
「はい。行ってらっしゃい」

 部屋に戻って荷物を回収した和成さんを見送ろうと玄関まで追いかけてそう言うと、彼はぽかんとしてから口角を緩めた。

「新婚さんみたい……」
「……! そ、そんなつもりは……!」
「分かってます、分かってますよ」

 どうしても笑みのかたちになるのだろう口元をてのひらで隠し、彼はもう片方の手でわたしの頭を撫でた。

「……行ってきます」
「……」
「ふふっ」
「和成さんっ」
「すみません」

 笑いをこらえ切れないふうに、彼は家を出ていく。ドアが閉まり、わたしはひとり部屋に残された。
 バイトまでは時間がある。何をして過ごそうか悩んだ。人の家となると勝手も分からないし、いつものようには過ごせない。
 そういえばこの家、テレビないな、と思いながら、和成さんと俗世間が結びつかないのでそれも仕方ないかと納得することにした。ニュースはともかく、あんまり、バラエティ番組とかには興味がなさそうだ。
 ソファに座って、しばしぼんやりとする。もちろん、何も考えていないわけではない。ぼんやりと、考え事をしているのだ。
 わたしが彼にできることと言えば何だろう。彼がわたしにしてくれたことの大きさは計り知れない。じゃあ、そのしてくれたことにわたしが返せるものは何だろう。

「…………」

 何も出てこない。
 料理をつくってあげる。却下、とても人に披露できる腕前ではない。
 掃除をしてあげる。却下、人の部屋に勝手に手をつけることはできない。
 今考えたふたつは思考がそもそも家政婦じみている。どちらにせよ却下の運びだ。
 人に胸を張れるほどの特技はないし、突出した技術もない。考えれば考えるほど自分が駄目な人間な気がしてくる。
 落ち込む。わたしにできることなんて、限られている。
 けれど、彼に何かしたいと思う自分は悪くないような気がしてくるから始末が悪い。

「あーあ」

 鞄をあさって煙草とライターを取り出した。去年の正月に兄からちょろまかしてきた箱の、最後の一本だった。嫌煙家の恋人の存在は健在のようで、兄は帰省中もはや一本も煙草を吸わなかった。
 火を点けて、ふ、と短く吸う。咳が出るほど気持ち悪い。むせながら携帯灰皿にまだ長い煙草を押し込んでソファの背もたれにしなだれかかった。
 最悪の気分を演出するのに、煙草ってすごく便利だ。和成さんの部屋で吸ってしまった自己嫌悪も相まって、ほんとうに最悪の気持ち。
 薄荷飴を出して口に含む。鼻から抜けていく清涼感が、頭を冷静にしてくれる。
 彼にできることは、ストーカーのことが解決してから考えよう。今このぐちゃぐちゃの状態で思い悩んでも仕方がない。
 もしくは、和成さんにこっそり、そうとは悟られないように聞いてみるというのはどうだろう。

「……却下」

 賢い彼に悟られないようにというのは、すごく難しい芸当だ。きっと見透かされて、見返りなんて何もいりませんよ、と言われる。
 正確に言えば、わたしが彼にしてあげたいのは見返りというポジションの行為ではないのだが。
 見返り、と言ってしまうといかにもこの今の関係が、利害の一致、というふうなイメージになってしまう。それはちょっと違う。
 そりゃあ、彼にしてみれば完全な善意、好意なのだから見返りはいらないだろう。けれどわたしが彼に渡したいのは、それこそ善意、好意……。

「えっ」

 自分の思考に自分で驚いた。
 わたしは、彼に好意を抱いているのだろうか。