02

 部屋は、昨日警察の捜査が入ったままの状態で、片づけ等はすべて自分でしなければならないようだった。窓ガラスが割られたままで、冷たい空気の中、コートを脱いで腕まくりする。雑巾でアルミの粉を拭き取りながら、惨めな気持ちになってくる。
 寒いし、指先が冷たいし、部屋は汚い。
 なんでわたしがこんな目に遭わなくちゃならないんだ。
 何度目かのその思いがわき上がり、ごしごしと棚をこすりながら涙が滲んだ。

「多英さん」

 名前を呼ばれ、はっとして顔を上げる。その拍子に滲んでいた涙が一筋頬を流れてしまい、慌てて拭う。

「もし、よければなんですけど」
「……?」
「俺の家に来ませんか」

 涙をこすったしぐさのまま、固まってしまう。彼は至極真面目な顔をして、作業の手を止めてこちらを見ている。

「え、でも」
「もしほかにあてがあるなら、もちろんそちらでいいです。でも、俺に守らせてもらえるなら」

 切羽詰まっているのはわたしのほうのはずなのに、必死な顔をしている。
 この人は、なんでたった一度チンピラから助けただけのわたしにここまでできるのだ。

「……これ以上頼るわけには」
「嫌なわけじゃ、ない?」

 ここで、嫌だ、と突き放せば、何か変わるのだろうか。彼はわたしから手を引いてしまうのだろうか。
 それを思うとどうしても、というより元より、嫌なわけがなくて。

「……」

 何も言えずに黙って俯くと、和成さんの足がこちらに近づくように一歩踏み出されるのが見えた。思わず、一歩後ずさる。

「ねえ、多英さん。逃げないで」

 ぞくり、と背中を何か冷たいものが伝い落ちた。
 初めて怖いと思った。その執着や、強迫じみた好意が、彼の中に棲みついているわたしが、わたしを駄目にしてしまうんじゃないかって、怖くなる。
 おずおずと顔を上げると、その垂れた目を切なげに細めて彼はわたしをじっと見つめていた。

「……俺、怖いですか?」

 きっと彼の目に映るわたしは怯えたような目をしている。それに気づかされて、色素の薄い瞳のもとにすべてが晒されているような、わたしの気持ちなんかすべてお見通しのような気がして、怖ろしかった。

「違うんです……」
「何が?」
「怖いのは、和成さんじゃなくて」

 怖いのは、和成さんじゃなくて。そのあとに続く言葉を必死で探す。

「……ストーカーが怖いです……」

 とても、怖いなんて言えなくて、どうにかこうにか嘘をついた。この震えた声では到底納得させられないかと思ったが、彼はほっと息をついた。

「それなら、俺が守るから」

 もうたぶん逃げ場も行くあてもないのだ。わたしは、ぐっとせり上がる吐き気のようなただ叫び出したいような気持ちを、必死で抑え込んだ。
 そのとき、わたしの携帯がメッセージを受信した音を間抜けに響かせた。思わず肩を浮かせてコートのポケットに入れっぱなしにしていた携帯のほうに目をやる。
 そそくさとコートのポケットを探り、取り出すと、画面に表示されていたのは意外な人物の名前だった。

『久しぶり』

 そんな文で始まった親友からのメッセージは、簡潔に短くまとめられていた。

『久しぶり。元気にしてる? 話があるので気づいたら返信ください』

 こんなにも受信者を身構えさせるメッセージを考えるのも難しいのではないか。そう思うほど、堅苦しい。けれどそれが真面目な希世らしいと言えばらしかった。
 携帯を持ったまま固まっているわたしに、彼が声をかける。

「どうしました?」
「いえ……希世……友達が、話があるって」
「話って?」
「それは分からないけど……謝罪、ですかね」
「謝罪?」
「わたしの……」

 そこで、はっと思いとどまる。彼に、元恋人のことを言ってもいいのだろうか。そんな気持ちがわき上がったのだ。逡巡し、けれど言葉を待っているように小首を傾げた彼に、観念して告げる。

「……彼氏を、寝取った友達で……」
「……ああ。彼女か」
「え……?」
「何度か、あなたと構内を歩いているのを見ました。ほら、あの人でしょ、長い茶髪の毛先だけ赤い」

 希世の髪の毛は、たしかに毛先だけブリーチをかけて赤色を入れている。
 わたしが知らなかっただけで、彼はわたしのことを知っていた。そのことをまざまざと思い知らされて、顔から火が出るほど照れくさくなった。
 そのまま、彼は何も言わない。てっきりほかの誰かみたいに、友達の彼氏を奪うなんて、みたいなことを言うかと思ったから少し拍子抜けした。
 とりあえず希世に返信する。話って?
 そっけないかと思ったが、それに対する希世の返信はもっとそっけなかった。

『直接会って話したい』

 いよいよ謝罪の線が濃厚になってきた。もうたっぷり謝られたし、今更掘り返してまた憂鬱な気持ちになりたくない。けれど、希世のほうから動きがあったということは、希世はわたしとの関係を修復したいと思ってくれているのかもしれない。そう思って、メッセージのやり取りを続ける。
 結局、希世が大学の帰りに通過駅であるわたしの家の最寄駅で降りてアパートまで来てくれる運びとなる。

「俺、いないほうがいいですかね……」
「そう、なんですかね」
「話の内容は想像できますけどね」

 やっぱり、部外者の和成さんでも分かるんだ、謝罪だよな。気がふさぐ。
 だいたいきれいになった部屋で、あとは大家さんと相談して窓ガラスの修理を頼むだけになった頃、家のインターフォンが鳴った。

「希世だ」
「……」

 玄関のドアを開けると、そこにはやっぱり希世が立っていた。寒い中歩いてきたためか、鼻の頭を真っ赤にしている。

「……久しぶり」
「うん」

 居心地が悪そうにもじもじしている希世を室内に招くと、まず和成さんを見てぎょっとして、それから窓ガラスが割れているのに気づいてますます目を剥いた。

「え、っと」
「紹介するね。うちの大学の院生の平野さん」
「初めまして。平野です」
「は、初めまして……」

 和成さんの存在よりも窓ガラスが気になるようで、ちらちらと視線をやっている。わたしは、ため息をついた。

「これは、昨日やられたの。わたし、ストーカーに遭ってるみたいで」
「そっか……」

 希世はあまり驚かなかった。
 床に座っていた和成さんが立ち上がり、俺は外にいますので、と言いつつ廊下に消える。その背中をたっぷりと凝視して見送ってから、希世は言った。

「そのことなんだけど」
「そのこと?」
「話したいこと」

 そのこと、というのがどれを指しているのかよく分からなくて目をしばたくと、希世の赤い唇が震えた。

「ストーカー。心当たりがあって」
「……?」

 そこで、気まずそうに視線を床のほうに泳がせていた希世が、しっかりとわたしを見据えるように顔を上げた。放射状に伸びた睫毛がぱっと花のように開く。

「麻生先輩が、たぶん」

 彼女が、何を言ったのか、わたしは一瞬理解できなかった。