一月も半ば、そろそろテストの時期だ。憂鬱な気分になるも、これを終えないと単位はないので踏ん張りどころである。
「……警察、行きましょう」
和成さんが、その高めのテノールを精一杯低くして唸る。彼の手には、何の変哲もない茶封筒が握られている。
朝起きて、顔を洗い朝食を食べ、大学に出かける準備をして外に出て、郵便物を確認するのに共同ポストの自分の部屋番号の扉を開け、それに気がつく。デリバリーや新築マンションのチラシ等に紛れ、宛名も何もないシンプルな茶封筒が一通入っていたのだ。
「……?」
裏返すも、何も書かれていない。なんとなく嫌な予感を覚えて、チラシはゴミ捨て場に捨ててしまってその茶封筒を道すがら開ける。
糊で貼りつけられた開け口に苦戦しながら、もたもたと中身を取り出す。白い紙が一枚だけ入っている。
ぞっとした。パソコンで打ち込んだ整然としたゴシック体で、そこには「殺す」という言葉が何行分も羅列されていたのだ。
思わず、辺りを見回す。誰もいない、いつもの通り道。それが異様に怖ろしく感じて、わたしは速足で駅に向かった。いつもは鬱陶しく感じる満員電車に、人がいる、とほっとしてしまうくらいだった。
授業を受けている間も、ずっと手紙のことが気にかかっていて、午前の授業が終わると同時に、教室から飛び出して十二号館に駆け出す。息切れしながら、今度はためらわず十二号館に入り、鈴井教授の研究室を目指した。ドアの前で呼吸をととのえて、深々と息を吸って、それからノックする。
「どうぞ」
ドア越しに、彼の声がして、わたしはドアノブを握る。
「こんにちは……」
「ああ、こんにちは。今日は教授いないので、どうぞおかけください」
前回座ったのと同じパイプ椅子を示され、素直に座る。かけていた眼鏡を外し、パソコンの前から離れた彼がポットの前に立つ。昨夜も深夜の一時頃まで電話をつないでくれていた彼からは、まるで疲れの色が見えない。
「すみません、この間ああ言ったのに何なんですが、ここコンロも冷蔵庫もないので、ロイヤルミルクティーどころかただのミルクティーもお出しできないんです」
「あっ、いえ、そんな、お構いなく」
「お砂糖はいくつ入れましょうか」
「……じゃあ、ふたつ」
相変わらず、せっかくの茶葉が、と言いたくなるような雑な淹れ方をされている紅茶が、それでも室内にいい匂いをさせだした。
ボルドーのカーディガンに包まれた薄い背中を見ていると、午前中あれだけ落ち着かなくて言いようのない不安に駆られていた心が、少し楽になる気がした。
「どうぞ。熱いのでお気をつけて」
「ありがとうございます」
たぶん、ここにはこれしかないのだろう、前回と同じ湯飲み茶碗に紅茶をそそぎ、わたしに差し出して彼もわたしの反対側にあるパイプ椅子に腰を落ち着けた。
「何かありましたか?」
いつもの言葉、いつもの優しさ、いつもと同じトーン。けれどその中に、わたしは少し、いつもと違うものを感じた。
「……何もないのが、多英さんが俺を訪ねてこないのが一番なんですけど……こうして訪ねてもらえるとついうれしくて……不謹慎ですね……」
「……」
一抹のさみしさや戸惑い、罪悪感などを読み取ってしまって、どう答えていいのか窮して、でも事が起こったのは事実なので鞄から茶封筒を取り出す。それを見た瞬間、中身を予想したのか和成さんの色のない頬が強張った。受け取って中身をあらためる彼に、小さな声で告げる。
「朝見たら、ポストの中に入っていて……」
「……警察、行きましょう」
深刻な表情でそう言われ、それでもわたしは尻込みした。
気味が悪いだけで、実害はほとんどないのだ。警察沙汰にして犯人を刺激してしまい、これ以上エスカレートしたら、と考えるのも怖ろしい。
わたしが黙っているのを、拒否の意と取って、和成さんがため息をつく。
「事態は、多英さんが思っているより深刻ですよ」
「でも、まだ気味が悪いだけで済んでるし」
「多英さん」
幼いこどもに言い含めるように名前を呼ばれ、どうしようもなくてじっと和成さんを見つめた。彼の腕が動いて、わたしに触れようとしたのかこちらに伸びてきたけれど、その手は頭や頬に触れることなく離れていく。
引っ込めた手で髪の毛を耳に掛け、そのままこめかみ辺りを引っ掻く。
「……どうして、そんなに警察が嫌なんですか?」
「別に、理由はないですけど……でも、和成さんが言ったんですよ、犯人が逆上してエスカレートするかもって」
「たしかに、それもひとつの可能性としてはあります」
細い足を組み、その膝の上に両手を乗せた彼が表情を曇らせる。そして、でも、と続けた。
「でも、このまま放置していても、エスカレートする可能性はじゅうぶんにあります。いや、現にエスカレートしている」
「……」
「どちらでも同じなら、より安全なほうを選びましょう」
なんでわたしがこんな目に遭わなくちゃならないんだ。恋人と親友を一気になくして、その上ストーカーだなんて。
俯くと、湯飲み茶碗を握りしめている自分の拳が目に入る。もうすっかり、紅茶はぬるくなってしまっている。
「多英さん、もし何かもっと大きなことが起きてからじゃ、俺は悔やんでも悔やみきれない」
「え……?」
「多英さんの身に何かあってから後悔しても遅いんですよ」
「…………和成さんは」
今なら聞けるかもしれない。苦しそうな顔をしている和成さんは、今なら茶化さず答えてくれるかもしれない。
「何で、わたしにそんなに優しくしてくれるんですか?」
「……言わせますか?」
ふと睫毛が震えて、薄い唇が弧を描く。自分の紅茶に目を落として、それから視線を上げてじっとわたしを見つめる。まっすぐなチョコレート色の瞳は、真剣そのものな光をたたえていた。