02

「俺は……一年前から、あなたのことをずっと気にかけていましたよ」

 一年も前から、わたしは彼の中にいたのだと知らされて、気まずくなる。わたしは彼の顔すら覚えていなかったし、受験という一大イベントのおかげであのことはわたしの中で大した出来事ではなかったからだ。それをずっと彼は気にかけてくれていたのだと思うと。

「だから、春になって構内であなたを見かけたときは、ほんとうに驚いた。でも、声をかけるきっかけもなくて」

 何も言えずに、黙っている。

「何度か声をかけようとは思ったんですけどね、十二号館の裏のベンチで、たまに煙草を吸っていたでしょう」
「……!」

 誰にもばれていないと思っていた秘密の行為。希世と喧嘩したとき、先生に無理難題を吹っかけられて恥をかいたとき、恋人と言い争いになったとき……。見ていた人がいたなんて、想定もしていなくて戸惑う。視線をうろつかせると、苦笑いが返ってきた。

「なんだか、こうして言葉にすると、俺がストーカーみたいですね」
「そんなこと」

 慌てて否定する。穏やかな笑みを浮かべ、和成さんはぬるくなった紅茶を含む。それにならって、わたしも紅茶を飲んだ。

「まあでも、準ストーカーには間違いない」
「……違いますよ……」
「別に、今すぐどうこうとか、返事を急かすつもりはありません」
「……え?」
「今は多英さんも大変ですし、落ち着いたら、ゆっくり考えてもらえれば」

 なんでこんなに飄々と顔色ひとつ変えずに言えるのだろう。少しは照れるとか、そういうのがなぜないのだろう。そう思い彼の手元に目をやると、指と指を絡めて落ち着きなく組み替えていた。そこから、たしかな狼狽や焦りのようなものを読み取り、わたしは目が釘付けになってしまう。
 じっと見つめていると、視線に気づいた彼も自分の手元に目を落としてはたと組んでいた指をほどいた。

「はは、緊張すると、いつもこうです……」

 照れたように指を開いて小さく降参のかたちに持ち上げる。
 そして、彼は目を細めてわたしをあやすように揺らすように言い募った。

「ね、多英さん、警察に行きましょう」
「……ひとりで?」
「もちろん、俺も付き添います」

 当然のように、そう言ってくれて、わたしはようやく少し安心する。
 答えを出さないままずるずると優しくしてもらって、ほんとうにいいんだろうか。そう思わないわけではない。けれど、今わたしは誰かに頼りたくて縋りたい。そしてその誰かがこういうふうに優しくしてくれるのなら、それでいいとも思ってしまう。
 数秒悩んで、わたしは頷いた。

「……警察、行きます」

 和成さんが、ほっと息をついた。そして、ほんのわずかに表情を翳らせる。

「今日明日は都合が悪いので、明後日でもいいですか?」
「大丈夫です、ありがとうございます」

 和成さんには言えないが、先延ばしになればなるほど気が楽だ。やっぱり、被害者側であっても警察なんかできるだけお世話にはなりたくないし、何もないならそれにこしたことはないのだ。
 このまま、彼の用事が積み重なって、警察に行かないで済めばいい、とも思ってしまった。彼は真剣にわたしの身を案じてくれているのに、それを仇で返すような思いに嫌気が差すけれど、できれば、警察には行きたくない。
「これは、とりあえず証拠物品として取っておかなくてはいけませんよね」
 和成さんが白い指でつまんだ茶封筒をひらひらと振った。揺れる茶封筒を見つめて、保管するのも気持ちが悪いなと思う。

「俺が預かっておきます。気味が悪いでしょうし」
「……なんか、ほんと……たくさんご迷惑をおかけして……」
「とんでもない。お役に立てるなら、いくらでも使ってやってください」

 儚げに微笑んで垂れた目を細める。その優しげなまなざしに、つい泣き出しそうになってしまって俯いた。
 一年前から彼の中にいたというわたしは、きっとこんなに弱い女じゃないのに。わたしは、弱味を晒してばかりだ。
 どれだけ格好いい服装をしてまなじりを跳ね上げる強いメイクで武装しても、たぶん、核の部分のやわらかい、自分を守るすべを持たないほんとうのわたしを、彼は引きずり出してしまう。
 彼はわたしを格好いい女性だと、たしかに言った。それに報いることができない今のわたしを、なぜ彼は守ろうとしてくれるのだろう。

「紅茶のお代わり、いかがですか?」
「……いただきます」

 最近物音に過敏になって、よく眠れていなくて、メイクでもクマを隠せないでいるし肌も荒れている。疲れた顔をしている、きっと。けれど、それに敏感に気づいてくれるのは、女友達でも男友達でもなく、彼だけだ。

「多英さん、午後の予定は?」
「え? 夕方からバイトが……」
「寝不足みたいですし……ソファで横になっていかれますか?」

 クッションと毛布の誘惑をひしひしと感じながらも、わたしは首を横に振る。

「あんまり、和成さんに甘えすぎるのは」
「甘えられたいなあ」
「え」

 唇を尖らせて、和成さんがわたしにいたずらっぽく流し目を送る。心臓がひときわ高く鼓動を刻んだ。

「ああでも……ちょっと無防備すぎるかな……」

 立ち上がり、パソコンの前に積まれていた書類から数枚引き出してシュレッダーにかける彼に、ぼうっと視線を向ける。シュレッダーが紙を裁断する音だけが響いて、何となく居心地が悪くて紅茶に口をつける。

「多英さんは、ちょっと隙があるんですよね」

 独り言とも、わたしに言い聞かせるようとも取れるような音量で和成さんがぼやいた。

「男をつけ上がらせるっていうか、隙だらけってわけじゃないんですけど、付け込みやすい隙間があるっていうか……」
「そ、そんなことないですよ」
「どうですかね」

 もちろん、隙のないがちがちに固められた人間だとまでは思っていないが、そんなに言うほど付け込まれやすいわけではないと思う。
 ストーカーされているのも自分に責任があると言われたような気がして、わたしはコートと鞄を掴んで立ち上がる。

「多英さん?」
「……帰ります」
「え、ちょっと」

 コートを着込みながらドアを開ける。和成さんが追いかけてきたのを睨みつけて、ドアを思い切り閉めた。床をヒールで叩きながら、もやもやする気持ちを持て余す。
 十二号館を出たところで、ちらりと振り返る。彼は部屋を出てまでは追いかけてこなかったようだ。そのほうがいいに決まっているのに、追いかけてこられても困るはずなのに、なぜか無性に腹立たしくて、そしてそんな感情に気づいたときに、わたし全然格好よくない、と自覚する。構われたがりの、弱虫だ。
 コートのポケットに手を突っ込む。一月の始めに初雪が降ったあと、ずっとこうして晴れたり曇ったりしているだけの、水っぽさなんて全然感じない空を見上げる。こんなにきれいに晴れていても、やはり寒いものは寒い。
 頬に凍てつくような空気が刺さるのを感じながらため息をつくと、吐息は白く染まった。