04

 実際のところ、テレビでしか見たことのない水族館に、心は浮き立っていた。魚を食べるのは、作法も味も苦手だけれど、泳いでいるのを見る分にはとてもきれいだと思うし、それに、イルカのショーだってせっかくなら生で観てみたい。

「あ、先に言っておきますけど、イルカのショーはないですよ」
「えっ、ないんですか」
「残念そうですね」
「水族館の醍醐味って、そこじゃないんですか……」

 心のうちを読まれたような気分ではあるが、それよりも重要な事実を突きつけられてショックを受けていると、彼は少し考えるように顎に拳を当て、困ったように言う。

「小さい水族館ですし、近くに海もないですからね。次は、大きな水族館にしましょう」
「イルカ……」
「アシカのショーはあったと思います」
「……詳しいんですね」

 何の気なしにそう言えば、意味ありげに微笑んだ。

「何ででしょうねえ」
「……女の子と行ったことある、とか」
「ちょっと惜しい」

 ほんのわずか、下心で彼の交友関係に探りを入れると、悪戯っぽく薄い唇を尖らせて、人差し指を立てて当てた。

「女の子と行くんです、これから」
「……」
「だから、調べました」
「……」

 水族館のホームページは見たことないけれど、きっと青を基調にしてあって、いろんな魚の写真が飾られている。
 そんな画面をじっと見つめる和成さんを想像して、わたしは一気に赤くなった。

「……最初から水族館行こうって言ってくれればよかったじゃないですか……」
「いえいえ、ホラー映画を眼前に垂らされて顔を引きつらせる多英さんを見るのがほんとうの目的でしたから」
「何わけの分からないことを……」

 水族館のある駅に着いて、降りる。ふてくされたように手をコートのポケットに突っ込んでいるわたしと、上機嫌な彼は、周りの人にどんなふうに映っているだろう。
 ふとショーウインドウを見ると、情けない顔をした自分の姿が目に入った。
 眉が垂れ下がって、頬を赤くして、唇なんか山のようにへの字に曲がっていた。よく漫画で見かける、段ボールに入れられて悪天候の中震えている捨て猫みたいな顔をしている。

「ばっかみたい……」
「何か言いました?」
「いいえ、何も」

 自分にすら聞こえない音量だったのに、和成さんの耳は拾っていた。振り返ってわたしに聞く彼は、どう見てもうきうきしている。

「……そんなにクラゲ見たいですか?」
「クラゲより、ペンギンが見たいですね」
「ペンギン……ですか」

 意外と可愛いものが好きなのか、と思って目を見開くと、彼はおごそかに呟いた。

「だって多英さん、クラゲよりペンギンがお好きでしょ?」
「はあ、まあ」
「なので俺には、ペンギンを見て喜ぶ多英さんを写真に収めるという使命が」
「何言ってるんですか」

 あまりにも恥ずかしいことを連発する彼に、思わず声を荒らげた。そして、見えてきた水族館のほうに向かって彼を追い越して歩きだす。

「多英さん、俺が誘ったんで、お代は俺が持ちますよ」

 後ろからのんきなことを言われたが、わたしは、彼にこれ以上借りをつくるつもりはない。
 入場チケットの値段に目を剥きながらも、映画もこれくらいの値段だ、と心の折り合いをつけてさっさと購入してしまう。

「多英さん」

 ため息とともに名前を呼ばれて、ようやく振り返る。自分の分のチケットを持った和成さんも、けれどさすがにわたしに現金を手渡すつもりはないようで、諦めてくれたようだった。

「もう……強情なんだから……」
「どっちがですか」
「多英さんが」

 言い返せない、言い返せないが、原因をつくったのは誰だと思っているんだ。
 とは言え、初めて生で見る海の生物たちに、わたしはすっかり夢中になっていた。

「マンボウ……可愛い……」
「……そうでしょうか」

 ゆらゆらと水槽の内側を優雅に泳ぐ魚たちは、想像以上に可愛くてきれいで、幻想的だった。

「水族館ってけっこう暗いんですね……」
「海って暗いものですからね」

 水槽に夢中になっているうちに、人の多さもあって、気づけば彼とはぐれてしまいそうでちらりと無防備に揺れている細い手を見る。
 さすがにつなげないけれど、これくらいは。

「っ」
「はぐれちゃうので」
「……そうですね」

 コートの裾をちょっと握る。我ながらあざとい。
 はぐれてしまうと思ったのはほんとうだが、そう言えば彼はきっとそうならないように注意してくれることは分かっていたし、携帯もつながるここは陸の孤島じゃない、はぐれてもちゃんと落ち合える。だから、握ったのは、たぶんわたしのわがままだ。
 わたしばっかり、可愛いとか言われて意識しまくることへの、ちょっとした意趣返し。

「和成さん……! コツメカワウソですよ……!」
「何でしょうね、何がいいんでしょう、女の子皆好きですけど」
「どう見ても可愛いじゃないですか!」

 結局、わたしはすっかり初めての水族館を楽しんで、はしゃぎすぎてちょっと和成さんを振り回しすぎてしまったかもしれない。
 帰り道、送って行くと申し出てくれた彼と、いえいえそんなめっそうもない、いえいえそんなご遠慮なさらず、の一悶着を起こしたあとで結局送ってもらう運びになる。北風が驚くほど冷たい暗い夜道を歩きながら、携帯で撮った写真を見返す。

「可愛い……」
「うーん……」

 煮え切らない態度の和成さんの顔を覗き込むと、彼は自分の携帯を見て苦い顔をしていた。

「多英さんがうまく写ってない……」
「わたしじゃなくて、ペンギンを撮ってください」

 どこまで本気で、どこまでが社交辞令なのか、全然分からない。
 飄々とした態度の彼を軽く睨む。そんなわたしの視線など意に介さないのか、おっ、と声を上げている。

「これとか、横顔が可愛いですよね」
「……」

 示された画面をしぶしぶ覗くと、餌をもらうために横を向いたペンギンしか写っていない。てっきり自分が写っていると思い込んだ過剰な自意識を、わたしは投げ飛ばしたくなった。

「ペンギンって魚を必ず頭から食べるんですね」
「え? ……そうでしたっけ」
「何ででしょうね。鱗が引っかからないようにかな?」
「……考えたこともありませんでした」

 たしかに、餌をもらっているペンギンの写真はどれも頭から丸飲みだ。けれど言われるまでまるで気がつかなかった。

「よく見てますね……」
「まあ、気にする性分ですね」

 心理学が専門だからついついいろいろなものを観察してしまう、と。そこでわたしは気がついた。

「もしかして、わたしも観察されてます?」
「……多英さんは観察するまでもなくけっこう見え見え……痛い!」

 和成さんの腹に軽く鞄をぶつける。特に重たいものは入っていないけれど、細い身体にはけっこうな衝撃だったらしい。大げさに唸って、そこをさすりながら彼は情けなく笑う。

「大丈夫、多英さんも観察してますよ」
「それって……大丈夫、って言うんですか?」
「……どうでしょう」

 観察されている、ということはあまり気分のいいものではないが、和成さんならきっと得た情報を悪用はしないだろうと思うので、まだ許せる部分はある。それに、凝視されたり、じろじろと眺め回されたりはしていない、決して押しつけがましくない視線なので、わたしは今ふと思うまで観察されているだろう事実にも気づいていなかったくらいだ。

「やっぱり、目の前の人が何を考えてるかとか、分かるんですか?」
「やだなあ、なんだか俺が超能力者みたいじゃないですか。そんなの分かりませんよ」
「……」
「ちょっとしか」

 分かるんじゃないか。
 これからはおちおちこの人の前で迂闊な真似はできないぞ、と決意を固めたところで、和成さんがくすくす笑う。

「今、もう俺の前で下手なことできないって思ったでしょう」
「…………」

 ここまでくると、一種の読心術ではないだろうか?

「今のは誰でも分かると思いますけどね」

 わたしが鈍感なだけなのか、彼が鋭いのか、前者を認めたくないわたしは、彼は異様に過敏な観察力を持つ特異な人なのだ、と結論づけることにした。