02

『家庭教師です。割りがいいんですよ』
「へえ……。……この間、教えるの苦手だって言ってませんでした?」
『中高生相手に勉強を教えるのと、多英さんに犯罪心理学導入を教えるのとではわけが違いますよ』

 そんなものだろうか。
 和成さんが中学生や高校生に勉強を教えている光景は、あまりにも想像に容易い。実家の自室に自分と和成さんが座って勉強しているのをぼんやりと頭に思い浮かべることができる。

「和成さんの授業って、すごく分かりやすくて優しそう」
『そうですか? 今時流行らないスパルタ教師として有名です』
「えっ、そうなんですか?」

 ほのぼのとしていたわたしと和成さんの勉強会の想像が一気にほの暗くなる。

『俺が優しいのは可愛い女性に対してだけです。中学生の男子に優しくする理由なんかないですから』
「……じゃあ、可愛い女の子が生徒さんなら?」
『うーん、痛いところを突いてくる』

 痛いところなのか、と思うとなんだかこちらの胸がちくりと痛む。
 和成さんは、その外見に似合わずけっこう軟派であることは分かってはいるものの、未だほかの女性と一緒にいるところを見たことがないのでなんとも言えずにいたけれど、生々しい現実にぶち当たると少しだけ、どろりとした黒いものが胃から口から溢れ出しそうになる。

『まあでも……仕事だし公私混同はしませんよ』
「そういうものですか?」
『人によって態度を変えてしまうと、申し込んできた親御さんに示しがつかないし。こういう仕事は信頼が大事です』

 バイトで、嫌なお客さんが来るとどうしても顔に出てしまうわたしにとっては耳が痛い。居酒屋ということで、どうしても無理難題やこじつけみたいなクレームを吹っかけてくる人や、変な酔い方をしている人はいるのだ。その人たちに、優良なほかのお客さんと同じ対応をしろというのは、まだわたしには難しい。

『そうだ、多英さん、今度また研究室に来てください、いい紅茶の茶葉いただいたんです』
「紅茶ですか?」
『ロイヤルミルクティーつくって差し上げます』
「わあ、いいんですか?」

 ロイヤルミルクティー、と聞いて心が浮き立つ。と、はたと思いついて声をひそめる。

「……和成さん、ロイヤルミルクティーのつくりかた、知ってます?」
『え? 紅茶にミルクを入れるんでは?』
「茶葉をミルクで煮出すんですよ」
『そ、そうなんですか? 知らなかった……』

 チョコレート色の瞳が唖然と見開かれているのが想像できるような声色で呟き、彼は、数秒黙ったのちに唸った。

『つくりかた、調べておきます』
「え、いいです、ふつうのミルクティーごちそうになれるなら」
『いえ。ひとつ勉強になりました。ありがとうございます』

 せっかくのいい茶葉を、彼はロイヤルミルクティーづくりで相当量無駄にしそうな予感がする。そんな微笑ましいようなもったいないような気持ちを持て余していると、玄関のドアのところで物音がした。

「っ」
『多英さん?』

 チャイムが鳴るのかと思ったが、そうではないらしい。人の気配はなんとなく感じるが、目的はチャイムを鳴らすことではなさそうで、わたしは身構える。息をひそめて固まっていると、耳元で和成さんが囁いた。

『誰か来ました?』
「……」
 声が出せない。息もできないような気持ちでじっとしていたけれど、玄関の向こうにいるだろう人物がそれ以上何かをすることはなく、やがてだいぶ時間が経って、まだそこに誰かいるのかも分からなかったけれど、わたしはようやく深々とため息をついた。

『大丈夫ですか? またチャイム?』
「……いいえ、玄関のほうから物音がして……」
『今は? 誰もいなさそう?』
「た、たぶん」

 和成さんが少し黙り込み、ふうと息を吐き出して言う。

『今日は、多英さんが寝て起きるまで通話状態にしておきましょうか』
「えっ、いいです、そんな」
『大丈夫、俺今晩徹夜の予定なんで、問題ないです。信じられます? クリスマスイヴに徹夜で作業って』

 そういう問題ではない。いくらなんでも、そこまで甘えられない。そう言おうとして口を開くが、和成さんのほうが一歩早かった。

『心配させてください、お願い』
「…………」

 ほんとうに気遣わしげな優しい声でそう言われると、断りづらい。そもそも、断りたい理由は甘えられないからというもので、そこを塞がれるともう断る理由はないのだ。そして、お願い、と言われると、無理を通しているのが彼のほうにすり替わってしまう。

「……いいんですか?」
『シャワー浴びるので、ステレオにさせてもらえれば問題ないです』

 そこまでしてくれることに、何の意味が込められているのか、彼の気持ちを深読みしてしまうのは避けられない。
 わたしが、ただ和成さんから見て可愛い女の子だからという理由だけではもう説明がつかないのだ。ぎゅっと唇を噛んでそれを聞きたい気持ちを押し殺した。

「ありがとうございます……」
『いいえ。何かあったらすぐ言ってくださいね』

 チャイムの連打があってもまともに取り合ってくれない寿を思い出す。やっぱりそれは、彼にとってわたしが特に大事な存在ではないからで、もしも繭香がそういう被害に遭っていたらすぐさま何か対応してくれるんだろう。別に、寿にないがしろにされるのがめちゃくちゃさみしいとは言わない。そりゃあ少しはさみしいしむっとするけれど。でも、それがふつうなのだ。
 そうすると、この和成さんの行動はやはり。

『ぜひ明日、俺にご褒美をくだされば幸いです』
「……ご褒美?」
『観たい映画があるんですけど、ひとりでは行きづらくて』
「そ、そんなことでいいんですか?」

 もっとすごいことを要求されると思っていたわけではないが、甘いテノールで紡がれたご褒美というフレーズに何かあやしいものを感じたのも事実だ。

『そんなことって、クリスマスデートですよ?』
「……そうですよね」

 確信しきれないのは、この辺りの軽さに原因があるのかもしれない。
 これだけしてもらっているのだから、デートくらい。そう思ったわたしに何か問題があると言わんばかりに、和成さんは浮かれた様子でいる。

『シャワー浴びるので、お聞き苦しかったらすみません』

 うきうきしたような声が急に反響する。風呂場だ、と思ったら水が流れる音がして、とっさに彼が裸でいることを想像して自分の横っ面を張り飛ばした。もちろん、そんなちっぽけな音はシャワーを浴びている彼には聞こえなかったようで、鼻歌まじりだ。
 その、ふんふん、という声が紡ぎ出す歌が、わたしの好きな男性歌手のものであると分かって、前にカフェテリアでそんな話をしたときに、今度聴いてみます、と彼が言っていたのを思い出した。ほんとうに聴いたんだ、と思って、うれしくなる。
 シャワーの邪魔をしたくはないので、黙って彼の鼻歌を聴く。心地よい少しだけ音程のずれたテノールと、床や壁に当たって弾ける水音が、鼓膜を優しく叩いていた。