03

 映画館の近くにあるコーヒーチェーンで待ち合わせて、わたしは約束よりも十五分も早く到着してしまった自分にため息をついた。しかも、いつもより丁寧にやったメイクにヘアアレンジ、お気に入りのワンピース。
 なんだかこんなの、まるで楽しみにしているみたいじゃないか。
 別に、楽しみにするのが悪いとは思わないけれど。
 レジで甘い味つけのされているコーヒーを注文して、彼が来たときのために席だけ取っておこうかな、と店を見回すと、見覚えのある背中を見つけた。濃い紫色に照る長い髪の毛に、深い青色のカーディガン。映画を観に行く時間はあるのに、髪の毛を切りに行く時間はないんだな。

「和成さん」
「え? あれ?」

 背後から駆け寄りつつ名前を呼ぶと、彼は慌てた様子でぱちんと携帯を閉じた。

「早いですね」
「和成さんこそ。……ガラケーでしたっけ?」
「ああ、これは」

 彼の薄い手の中にある、折り畳み式の携帯を見て首を傾げる。前に電話番号を交換したときは、スマホをいじっていたはず。
 鞄に携帯をしまい込みながら、ちょっとした悪戯や小細工がばれてしまったこどものような笑みを浮かべる。

「前に使ってたものなんです。壊れてるんですけど、中に入ってる写真とかを見返すために持っていて」
「パソコンに取り込むとか、すればいいのに」
「まあ、諸事情ありまして」

 彼の向かい側に座って、まだ熱いコーヒーを飲めずに紙のカップをテーブルに置く。彼の前には蓋が外れたカップが置いてあり、半分くらいに減ったブラックコーヒーが入っていた。

「諸事情……?」
「いろいろあって、パソコンには取り込めないような写真とかね」
「……」
「あっ、いや、決していかがわしい写真じゃないですよ」

 あやしい。
 露骨にうろたえる彼に訝しむように視線を向けると、ますます慌てた様子で首を振る。
 それにしても、そうして、保存した写真を見るためだけに以前使っていた携帯を手元に残している人は少なくないとは思うものの、それを持ち歩いている人というのはあまり見たことがない。

「じゃあ、見せてください」

 持ち歩いてこうして街中でも見たくなってしまう写真とは、いったいどんなものなのか、ちょっと気になる。

「駄目です」
「やっぱりいかがわしい写真なんじゃ……」

 ねっとりと見つめると、彼は困ったように笑った。

「多英さん、かまのかけ方が分かりやすいです」
「……ですよね」

 さすがに、心理学を専門にしている人にこんなあからさまな戦術は使えないのか。

「まあその可愛さに免じて、許してあげます」
「可愛くないですって」
「今日は髪の毛結んでるんですね、可愛い」
「だから可愛くは……」

 思わずそう言い返してから、わたしはふと引っ掛かりを覚える。
 なぜ、わたしが許されなければならないのだ。
 いつの間にか論点をずらされていたことに気づき、わたしは和成さんを睨みつける。彼も、わたしが気づいたことに気づいたようで、ちらりと舌を出してみせた。
 ため息をついてカップに触れる。まだ飲める温度に達していないことを確認し、それから仕方なく話題を変えた。

「映画、何時からですか?」
「二時半からです」
「何観るんですか?」
「何だと思いますか?」

 含み笑いでそう、質問に質問で返されて、何かが喉を滑り落ちてすとんと腑に落ちる。

「……怖いやつですね?」
「あれ、なぜお分かりに。今話題沸騰中の邦画ホラーです」

 微笑んでいる穏やかな顔に反して、わたしの顔の血の気は引いていく。
 今、盛んにテレビのコマーシャルなどで流れているホラー映画は知っている。そのコマーシャルが流れるとチャンネルを変えるくらいには知っている。たしか、知らない人から携帯にメッセージが届いて、それを受け取ってしまった人間は正体不明の殺人鬼に惨殺される、とかいう内容だった気がする。
 ホラーに限らず、ミステリやサスペンス等の死体が転がる話は好きじゃない。作り物だと、演技だと、分かっていても血のりやぐったりと動かない身体は気味が悪い。
 加えて、ホラーはだいたいにしてその死に方がおどろおどろしくて凄惨だ。正体不明の殺人鬼とか、そういう要素は恐怖でしかない。そして、わたしの偏見だけれど、ホラー映画はそういった事件が根本的に解決することはなく、禍根を残したまま後味の悪い感じで終幕を迎える。絶対に観たくない。
 けれど深夜から朝にかけて、眠って起きるまで電話をつないでいてくれた彼に、観たくない、とはとてもじゃないが言えない。
 引きつっているだろう口角を宥め宥め、相槌を打つ。

「そんな気がしました……」
「……そうですか」

 こんな人畜無害そうな儚い顔をして、残虐なホラー映画を好き好んで観る人だったのか。何にかは分からないものの、少しがっかりして肩を落とすと、彼は残っていたコーヒーを飲み干した。

「じゃあ、多英さんが飲んだら、行きましょうか」
「あ……はい……」

 手を伸ばすと、少しぬるくなっていて、飲めそうだった。
 今夜は別の意味で寝られなくなりそうだ。と戦々恐々としながらコーヒーを口にする。ずるずると飲むのを引き延ばしても、わたしは待ち合わせに十五分も早く来てしまったし、二時半まではまだまだ余裕がある。何なら、昼食をご一緒してもよかったくらいの時間である。
 ゆっくりゆっくり、ことさら時間をかけてコーヒーを飲み下して、立ち上がる。

「……行きましょう」

 気分は戦地に赴く兵士だ。ちなみにわたしは、血が流れるだろうな、という理由で戦争がテーマの作品も敬遠している。
 観るのはだいたい、平和な恋愛物かアニメーション作品だ。海外のアニメーション作品は、向こうが規制が厳しいためかこども向けだからなのかほとんど流血描写がないのが気に入っている。
 店を出て、和成さんが向かったのは映画館とは逆方向だった。

「あれ? 映画は?」
「観ませんよ」
「え? ホラー観るんじゃ……?」

 あっけらかんと、観ませんよ、と言い切られ、首を傾げる。駅に向かっているらしい彼を追いかけない選択肢もないので、ついてゆきつつも、追及の手は緩めない。

「映画は?」
「多英さん、水族館お好きですか?」
「え? たぶん好きです……」
「実は俺もクラゲが好きで」

 話が噛み合っているようで噛み合わない。映画はどこへ行ったのだ。
 三たび、映画は、と尋ねようと口を開くと、わたしが声を発するより先に和成さんが言う。

「最初のデートでいきなり好みの分かれそうなホラー映画を選ぶような人間に見えますか?」
「は?」

 思わず、つっけんどんな声が出た。
 選んだじゃないか。恨めしく睨みつけると、彼は笑い出した。

「はは、冗談のつもりだったんですけど、怖がって青くなってる多英さん可愛くて、つい」
「……」

 ほんとうに、背格好も中身も、風が吹けば飛んでいきそうなくらいに軽い。何が、つい、だ。

「水族館、行ったことありますか?」
「……いや……ないです」

 少し考えて、記憶になかったので首を振る。
 だって、小学校のときの遠足と言えば動物園だったし、地元の近くに水族館がなかったということもあって、友人等とも行く機会はなかった。
 満員というほどでもないが座れない車内で、ドアに背をもたせかけた和成さんが何か考え事をするように視線を上にめぐらせた。

「彼氏とも行かなかったですか?」
「いや、行ってないですね……」

 思い出したくもない恋人の顔を思い浮かべて、苦々しく言う。希世は、連れて行ってもらったのだろうか。そんな発想まで浮かんできた。慌ててその想像を取り消すが、こびりついた油膜のようにくっついて離れてくれない。

「どこで降りるんですか?」

 完全にペースを乱されながらも降りる駅を確認すると、海沿いまで出るのではなく、都会の憩いの場のようなすぐそこの水族館に行くらしかった。

「じゃあ、水族館に行くのは、今日が初めて?」
「そうですね」
「ちょっとわくわくする?」
「ホラー映画よりは」

 ぷっと吹き出し、和成さんは、ごめんなさいってば、と謝った。