嵐斗くんの過去


 嵐斗くんの部屋は、1DKの間取りでダイニングの奥に寝室がある。ダイニング、と言ってもテーブルと椅子が置いてあるだけで、嵐斗くんはたぶん生活の大半を寝室と呼んでいる個室で過ごしていると思う。
 あたしが泊まるときも、食事以外はだいたい寝室にいる。
 でも今日は、テーブルを挟むように置いた椅子に座らされ、インスタントコーヒーにミルクをたっぷり入れたカフェオレを置いてくれた。
 自分の前にも、少し牛乳の割合が低いカフェラテを置いて、だけど嵐斗くんはそれに口をつけることはない。

「……どこから話せばいいかな」
「……嵐斗くんが話したいところからでいいし、話したくないなら話さなくてもいい」

 これは本心だった。あたしがモトカノのことを言ったせいで、嵐斗くんの思っていたタイミングではないところで話す羽目になったのだとしたら、それはあたしにとってもよくない気がしたから。
 でも、嵐斗くんは首を振って口を開いた。

「俺、孤児なんだ」

 こじ?

「……こじってなに?」
「親がいないこどものこと。病気とか事故で死んだとか、捨てられたとか、そういう理由でね」

 あ、孤児か……。
 理解したと同時に、そんなことをあっさりと言ってしまう嵐斗くんにびっくりした。

「高校を卒業するまで、施設で育った。悪いとこじゃなかったけど居心地がいいってわけでもなかったから、特に思い入れもないけど……」

 そのときのことを思い出そうとするように目を細めてどこかを見つめる嵐斗くんは、知らない人に見えた。
 あたしにとって、親はいるのが当たり前で、離婚とかで母親か父親しかいない家庭の友達はいるにはいたけど、その子たちにも親はいて。だから、どちらの親もいない、という状況がどれだけ苦しいのか想像がつかない。
 あの魚雷女が言ってた「苦労」って、そういうこと……?

「ただ、最初から親がいなかったわけじゃないはずなんだよ」
「……? はず、って?」
「俺、施設に入る前の記憶がない」
「え……?」

 ないと言った記憶を手繰り寄せるようにまばたきしながら、嵐斗くんがぼそ、ぼそ、と話しはじめる。

「施設に入ることになったのは、小学校六年生のときだ。だから、その前は親か親戚が俺の世話をしてたはずなんだけど、その記憶が一切なくて、気づいたら俺は施設に入ることになってて、だから俺の人生のスタートは小学校六年生なの」

 ダイニングの重苦しい空気に耐えきれずに、もぞっと足を動かすけど、そんなことで空気が変わるわけもない。

「だからたぶん俺、施設に入る前は虐待とか受けてて、何かのきっかけで助けられて、俺はその記憶がつらいから封印しちゃってる、とかだと思うんだ」
「……」
「アテナちゃんと結婚、とかなったりするときにいつかは話さなきゃいけないことだとは思ってたんだけど、正直、アテナちゃんがこれを受け入れてくれるかは、かなり怖くて」
「なんで……?」

 考えるより先に言葉が出た。
 なんで、嵐斗くん怖いの? あたしが受け入れるかどうか? そんなの。

「どこで育っても、あたしは今の嵐斗くんが大好きだし、もし嵐斗くんが全然違う育ち方してたらもしかしたらあたしたち出会ってなかったかもしれないよ。だから、そんなの怖がる必要ないよ」
「…………」

 受け入れるとか受け入れないとか、そういう問題じゃない。なんだよ、受け入れるって。あたしそんなに偉そうなこと言える立場じゃない。
 あたしと嵐斗くんは、対等なはずだ。どっちがどこでどういう育ち方をしてても、お互い今のお互いを好きになった、対等な関係であるはずだ。

「嵐斗くんは苦労してきたんかもしんないよ、親がいないのはあたしには想像できないし。でもさ、結婚するとかなったとき、あたしは嵐斗くんの家族と結婚するわけじゃなくて、嵐斗くんと結婚するんだから、一番大事なの、そこでしょ?」

 嵐斗くんは、怖い、と言ったけど、あたしのほうが怖かった。嵐斗くんがどこかに行ってしまうような気がした。
 ああ、やっぱりモトカノのことなんか言わなきゃよかった。

「……マナミは」
「……」
「俺の幼馴染だった、らしい。なんせ六年生以前の記憶がないから、分かんないんだけど。ただ、マナミはずっと俺のことを気にしてくれてて、施設育ちってせいでいじめられてた俺を助けてくれてた」

 ぎく、と心臓が嫌な音を立てた。
 そんなの、勝てるわけないじゃん。ただのイタイ魚雷女だと思ってたけど、嵐斗くんを支えて、ずっとそばにいて、そんなのずるいじゃん。

「それで、高校の卒業式で告白されて付き合いだした。俺もマナミのこと好きだと思ってたんだけどさ」
「…………」
「マナミといるといつも苦しかった」

 あたしには到底理解の及ばない告白に、眉が寄る。いつも、苦しかった?

「マナミといると俺はいつも、親のいない可哀想なこどもだった」
「……!」
「気にしてくれてうれしかったけど、マナミの目はいっつも俺を可哀想だって言ってた」
「……」
「高校卒業したら施設を出なきゃいけなくて、俺は就職してひとり暮らしを始めたけど、それでも、マナミといるとき俺はみなしごだった」

 あんなに苦労してきたんだから幸せにならなくちゃ。
 魚雷女が言っていた言葉が不意に頭に浮かんだ。
 きっと嵐斗くんは、周りや魚雷女が思うより、気持ちは楽だったんだ。施設の環境はよくも悪くもなかったけど、虐待されていたかもしれない家庭よりはきっと楽だったんだ。
 嵐斗くんは、魚雷女に「可哀想な嵐斗」を押しつけられていたのか?

「だから、怖いってのは、アテナちゃんもそうなるんじゃないかってことで」
「……いや、だからさ……」

 人の話聞いてくれ!

「あたしは、嵐斗くんがどこでどう育ったって、今の嵐斗くんが好きだって言ってるじゃん。その話聞いたからって今更なんか変わるわけじゃないし。……過去は変えらんないし、そりゃこれからあたしは嵐斗くんに親がいないってのを知っちゃったあたしにはなるけど……、ってか別に親いないのが可哀想なんてひとくくりに言えなくない? それこそ、嵐斗くんが虐待されてたんだったら、そんな親いないほうが幸せだし」

 あたしは、今更嵐斗くんが、実は親がいないのだとか、ほんとうは前科があるのだとか、そういうのを告白してきたところで、それらのことは全部今の嵐斗くんを形作るものだと思っているので、あまり気にしないでいたい。
 ……いや、前科は罪状によっては多少気にしたいかな……。

「…………アテナちゃんは、やっぱ優しいよな」
「いやこれは優しいとか優しくないとかの問題じゃなくない?」
「いや、優しいよ」
「それで言ったら、魚雷女だって一応優しくはあるんだよ、嵐斗くんのことを気にして、可哀想だって思って、こんな頭悪そうなギャルと付き合ってるの心配してくれてんだから」

 嵐斗くんがその鋭い目を見開いてぽかんとした。

「嵐斗くんのことが心配なんだよ、あの女だって」
「……アテナちゃん、マナミのこと魚雷って呼んでんのウケるんだけど」
「そこかよ」

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