あたしの旦那が完堕ちしてる
なんだかんだで嵐斗くんのほうがいっぱい名義変更するものを持っていたので、あたしがおとなしく苗字を変えることになった。
サロンのスタッフに、結婚することにしました〜って報告した瞬間から、アテナってみんなに呼ばれてたのが急に五十畑さんになったの、マジでえぐい。
「五十畑さん今月も指名まあまあ取れてんで」
「五十畑さん、そこのロッド取ってちょ」
「五十畑さ〜ん」
「あ〜も〜うるさい!」
まあこの五十畑さんも、一ヶ月もしたら落ち着いてアテナに戻るとは思うんだけど。
早番で仕事を終えて待ち合わせ場所に行けば、嵐斗くんはまだいない。なので、久しぶりに嵐斗くんのお店まで迎えに行くことにした。
行く途中で会うかもしれないから、寄り道はしない。
「……」
お店の外からこっそり覗き込むと、嵐斗くんの姿は店内にはなかった。んん、と思って、今日はそんなにお客さんがいないから店に入ってみる。
「いらっしゃいませ」
入口の一番近くにいた店員さんが声をかけてくれて、そのあと、あっと声を上げる。
「美容師のアテナちゃん!」
「んぇ?」
名指しされて店員さんをめっちゃ見つめる。見つめて、気づいた。
「ミヤマさん!」
「覚えててくれたんすね!」
前に嵐斗くんが風邪を引いたと教えてくれたおにいさんだったのだ。近寄って、こっそり話しかける。
「あの、嵐斗くんいますか?」
「もうそろそろ上がりなんでバックにいるかも」
「そっか。じゃあ、外で待ってます」
「あ、ねえ、アテナちゃん」
敬語なのに、アテナちゃんと呼んでくるのがおもしろい。呼び止められて首を傾げると、ミヤマさんはにこーっと笑った。
「ご結婚おめでとうございます!」
「ありがと!」
あーあ、嵐斗くんも職場で小森さんって呼ばれてりゃいいのに、そうはいかない。
そのまま、ちょこっとミヤマさんとなんでもないような世間話をする。ミヤマさんは、二十二歳で、嵐斗くんのことをめちゃくちゃ尊敬していて、そんでもってあたしのことはめっちゃかわいいと思ってくれてるみたいだった。
「いや、なんか、五十畑さんとマジでお似合いだなって言うか……あれ、そういえばアテナちゃんはいくつなんですか?」
「あたしこないだの誕生日で二十一になったんすよ」
「ってことは五十畑さんとは……」
「今六個違い」
フーン、と言って、ミヤマさんはちらっとスタッフルームの扉のほうを見た。
「なんか引き留めといてアレなんだけど、五十畑さんもう帰ったかも」
「ええ!?」
「上がりの時間過ぎてっし、まあ奥で作業してたらまだいるかもっすけど、今日約束してるんですよね?」
「まじかあ〜入れ違いになっちゃったかも……」
嵐斗くんのことだから、待ち合わせ場所にあたしがいないことに気づいたらすぐにサロンに向かうだろう。
あたしがこっちまで歩いてきたのに、向こうも歩かせるなんてそんな意味ないことさせることになるなんて。
「じゃあ、あたしもう行くねっ」
「また来てくださいね〜」
ミヤマさんに見送られ、急いで待ち合わせ場所に行くけどやっぱり嵐斗くんはいなくて、スマホの通知もなんにもなくて、サロンまでの道を急ぐ。
小走りになろうとしたところで声をかけられた。
「ねえ!」
振り向くと、魚雷さんがいた。こっちに向かって走ってくる。
「何すか。つか、せっかくかわいくしたのにセットしてないじゃん!」
「う、うるさいな、今日は時間がなくて……じゃなくて!」
「何」
「嵐斗が大変なの!」
「ハ?」
魚雷さんが言うには、偶然(ほんとに偶然か?)嵐斗くんとハチ公の前で会って話をしていると、男が嵐斗くんに話しかけて、ただ事じゃない空気になって、連れて行かれてしまったらしい。
魚雷さんに連れられて、いつも待ち合わせにしているハチ公前じゃない、モヤイ像のほうに行く。嵐斗くんが、向こうからいちゃもんつけてきたからって喧嘩を買うか? と思ったけど、嵐斗くんと一緒にいる奴を見て納得した。
「嵐斗くん!」
「……アテナちゃん」
嵐斗くんの前で立ち尽くしてたのは、あの父親だった。今日は弁護士のクソジジイはいないみたい?
「何してんだよあんた! まだ何か用なの!?」
「お前には関係ないだろ!」
「ッ」
おっさんが、思いのほか腹から声を出した。となりで、自分が言われたわけじゃないのに魚雷さんが息を呑む。
「関係あるよ! あたしたち結婚したから! 嵐斗くんの家族だもん!」
「……家族? 血もつながってないくせに!」
「血ってそんなに偉いのかよ!」
さっと怒りの表情に変わったおっさん。モヤイ像の周りは、人がけっこういるから、こうやって怒鳴り合うとかなり目立つ。最悪警察を呼ばれる可能性もある。
すうっと息を吸って自分を落ち着かせ、おっさんをぎろりと睨む。
「で、あたしの旦那に何の用?」
「俺の戸籍に戻ってきてほしいって」
「ふざけんな!」
言葉を途中でぶった切って叫ぶ。一瞬も落ち着けなかった。
となりで魚雷さんがおろおろしている。その肩を強く握りしめて、魚雷さんが悲鳴を上げる。
「痛い!」
「あ、ごめん……」
魚雷さんの悲鳴で我に返る。そうすると、嵐斗くんが無言なのが気になった。
あ。
「あの人が自力で迎えに来てたら」
嵐斗くんは、前にそう言ってた。もしかして、このおっさんが自力で、弁護士の力を借りずに来たから、悩んでる?
嵐斗くんを見つめるけど、嵐斗くんは静かな目でじっとおっさんを見てる。
やだ、というのは少し違うけど、嵐斗くんがこのおっさんと家族に戻るつもりなら、愛子さんはどうなるんだろう。あの施設は、嵐斗くんの思い出は?
記憶なんかないおっさんの家族になりたい、って、本気で思うの?
「……川田さん」
嵐斗くんが、口を開いた。出てきたのは、おっさんの苗字だった。
「何度こうして来てくれても、俺はあなたと家族になることはないです。もう、あなたと過ごした時間より、あなたと過ごさなかった時間のほうが長い」
「嵐斗」
「俺には、新しい家族ができたし、今までの家族も大事にしたいし、だから、あなたに時間や気持ちを割いてる余裕はないんです」
静かに、静かに、だけど嵐斗くんの口調は、強かった。
それは嵐斗くんの、過去に踏ん切りをつけるための言葉だって思った。
おっさんは、最終一個前の新幹線を取っているらしく、すごすごと東京駅に向かう電車に乗って行った。
嵐斗くんの言うことはもちろんその通りなんだけど、あんなに肩を落とされたらちょっと、可哀想かな、って思った。
渋谷駅で電車を待つ嵐斗くんの横顔をちらっと見上げる。前を見ていると思っていたら、こっちをじっと見ていた。横顔じゃなかった。
「なに?」
「え? あ、いや……嵐斗くんもうすぐ誕生日じゃん?」
「うん」
「何か欲しいものある?」
嵐斗くんは、鋭い目を見開いて、数秒考えて首を振った。
「今は特に……」
「もうちょっと考えてくれ〜」
「そだなあ、アテナちゃんがめっちゃ米食うから、お米券が欲しいかなあ」
「お米券、……ってなに?」
「お米が買えるチケット……? 俺も詳しくは知らん」
適当言ってんな、と分かってむくれると、けらけらと笑って、嵐斗くんが言う。
「考えとく」
「おねしゃっす」
電車に乗って、いつも通り嵐斗くんの家に行こうと乗換駅の新宿で降りようとして、はたと思い出す。
降りる様子のない嵐斗くんも、にやにやしながら名前を呼んでくる。
「アテナちゃん」
「……習慣ってこわい〜」
「はっはっは」
そのまま新宿で降りずに、もう数駅飛ばして降りる。
駅を出て道を歩きながら、嵐斗くんはだんだんお喋りが減ってきて、家の近くに来る頃には無言になってしまった。
「……嵐斗くん?」
「…………、あのさ、……」
「ん?」
「俺、明日休みなのね」
「うん」
「だからさ……」
嵐斗くんが何を言いたいのか、なんとなくピンときて、でも嵐斗くんの口から言わせてえなあ、と思って分かんないふりをしてみる。
だけどあたしの顔がにやにやしちゃってたのか、すぐにばれた。
「つまり……な?」
「言われないとやりませ〜ん」
「……あー……えっと、…………エロいことをしませんか」
「もう一声!」
マンションのエントランスでこんな馬鹿みたいな会話してる夫婦、馬鹿すぎる。
でもね、嵐斗くんがお尻を揉まずしてねだってくるのは超貴重なんですよ。これは聞きたいだろ!?
「……ここだと誰かに聞かれるかもしんないから、家入ってから言うわ」
「えー」
「聞くのはアテナちゃんだけでいいだろ……」
不覚にもキュンとした。心のおちんちんが急におっきくなってしまった。
もう! 今夜もずっこんばっこん、足腰立たなくなるまでやったるからな!
出会った頃よりずっと素直な嵐斗くん。かわいい嵐斗くんもかっこいい嵐斗くんも、男前な嵐斗くんもトロ顔してる嵐斗くんも、全部あたしの嵐斗くん。
お揃いのキーホルダーにつけた鍵を、鍵穴に入れて回す。
「ただいま」
「ただいま〜! はい! 言って!」
「いやムード……」
「いいから言って!」
「…………あー……」
真っ赤になって誘い文句を口に乗せた嵐斗くんは、このあと玄関でお尻に指を突っ込まれてしまうことを知らない。
カレシの頃、即堕ちすぎて不安だったけど。旦那になったら即堕ちって言うかもう完全に堕ちてたんでまあ……大丈夫じゃないですかね?
まあ、あたし専用のお尻なんで? ほかの誰も、嵐斗くんがこんなにかわいくトロ顔さらしてお尻だけでイけるなんて知らないし?
「ねえ嵐斗くん、今日はどれにする?」
◆完◆
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