俺の奥さんがイケメンすぎる


 新居は南向きの1LDK、寝室が最南端にあるため毎朝降りそそぐ朝陽で目が覚める。
 のが理想だったのだが。

「おーきーろ、アテナちゃん!」
「あとごふん〜」
「ああ? アイライン引けなくなるぞ!」

 アテナちゃんがいぎたないのは結婚する前から分かっていたけど、結婚して毎朝俺に起こしてもらえると分かった途端、彼女のねぼすけは加速した。
 先に起きる俺は、朝陽を遮るカーテンを引くのが毎朝で、つまり降りそそぐ朝陽で目を覚ますことはない。
 そして、こんなにも恵みの朝陽が降っているのに、この女が目を覚ますこともない。

「あいらいんひけるもん〜」
「引けない。今日のアテナちゃんはすっぴんで出勤するの」
「やだ〜」

 ぐずぐず言いながらようやく、目を閉じたままむくりと起き上がる。ぼさぼさのシルバーアッシュのロングヘアが朝陽を反射してきらきらしている。
 両わきに手を差し入れて抱え上げ、アテナちゃんをダイニングテーブルに連れて行く。椅子に座らせて強制的に、焼いたパンを口に突っ込む。

「起きたか?」
「おきた……」

 むぐむぐと、与えられるままにパンを噛みながら、アテナちゃんはようやく目を開ける。すっぴん(まつエクはしてるが)なのに驚くほどデカい目をぱちぱちさせて、くあ、と大きくあくびをする。

「おはよ、嵐斗くん」
「おはよ。今日早番だろ」
「ん。……ん?」
「ん?」

 アテナちゃんが、パンを食べながら何かを思い出すように首を傾げた。

「あー! 今日あたし鍵当番!」
「は!? 早く言えよ! 間に合う!? 間に合うの!?」
「間に合わせるしかねーだろ! パン食ってる場合じゃない〜!」

 吸い込む勢いで俺がつくった簡単な朝食を平らげ、アテナちゃんが洗面所に駆け込む。ばたばたと準備をしている様子が聞こえてくるが、俺は気が気じゃなかった。
 アテナちゃんは時間にルーズなわけじゃない。ただ朝起きられないだけである。しかしそれにしたって、俺と結婚する前、ひとり暮らしのときは、たぶんこんな失敗はやらかしていなかった。少なくとも、何でもかんでも報告してくるアテナちゃんからそんな話は聞いたことない。
 俺が甘やかしすぎてるのか? もっと鬼みたいに接して、一回くらい痛い目見せたほうがいいのか? 俺はアテナちゃんの親じゃないんだぞ……。
 食器を洗うか悩んで、浸けておくだけにして帰ってから洗うことにする。そして、洗面所に首を突っ込む。アテナちゃんがすごい勢いでメイクを頑張っていた。

「アテナちゃん、間に合う?」
「待って! 今アイライン引いてるから!」
「引くのかよ!」
「引かなきゃヤバいでしょ!?」

 いや引いたらたしかにかわいいけど引かなくてもじゅうぶんかわいいだろ……。
 きゅっと跳ね上がったラインを引き終えて、アテナちゃんがほっと息をつく……間もなくばたばたと寝室に駆け込んだ。
 がさがさとクローゼットをあさる音がして、大丈夫かなあ……と思っていると、どたどたとリビングに戻ってきた。ここは三階だけど、わりと毎朝、階下の人に迷惑になっていないか不安だ。

「忘れモンない?」
「分かんない!」
「確認して!」
「はい! 財布! スマホ! キーケース! とりあえずこれがあれば生きれるから大丈夫!」
「オッケー、出るぞ!」
「はい!」

 アテナちゃんが靴を履いて、俺も靴を履く。
 ドアの鍵を閉めてふたりでダッシュする。五十分の電車に乗ればアテナちゃんの出勤に間に合うはず!



 間一髪で、ドアが閉まる寸前に滑り込んだ。

「ぜー……ひゅー……間に合った……」
「アテナちゃん……マジ……ちゃんと起きて……」
「ごめ……今、喋れな……ごめ……」

 アテナちゃんの喉から、隙間風みたいな空気の漏れる音がしている。ちょっと全速力で走らせすぎたが、この電車に乗れなければアテナちゃんはもっとつらい思いをするので仕方ない。
 ドアにもたれかかって息を整え、額に汗を浮かべたアテナちゃんが、俺に深々と頭を下げた。

「すいません……明日はちゃんと起きます……」
「それは昨日も一昨日も聞いた」
「ううう……起きようとは、起きようとは思っているんだよぉ……でもあたし布団と結婚してるからあ……」
「アテナちゃんと結婚してるのは俺」
「うえええん」

 俺が説教しているうちに、電車が渋谷に着いた。
 降りて、慌ただしく改札を通って、俺は俺の職場のほうへ、アテナちゃんはアテナちゃんの職場のほうへ足を向ける。

「じゃあ、また夜ね!」
「おう、遅刻すんなよ」
「行ってきます!」
「行ってきます」

 じゃっ。とアテナちゃんがとことこと小走りで駆けていくのを少しだけ見送ってから踵を返そうとすると、アテナちゃんがくるりと振り向いてこちらに走って戻ってきた。

「……?」
「忘れ物!」
「え!? 今更!?」

 一瞬にして血の気が引く。財布とスマホとキーケース持ってるから一日は過ごせるだろ!? なに忘れたんだよ! まさかメイクポーチとか言わないよな……?
 俺のところに戻ってきたアテナちゃんが、少しだけ息を乱しているところを問い質そうとすると、くんっと服の襟元を引かれた。

「っ」
「行ってきます!」
「…………」

 俺の唇に軽く唇を押し当てて、アテナちゃんが今度こそ、走っていく。
 残された俺は、そこそこの人通りのある駅前で、行ってきますのチュウをされてしまった衝撃で固まっていた。
 普段、基本的に出勤時間にずれがあるから、一緒に家を出ることは少ない。なので、玄関先でこれをしている。
 でもだからってこんなところで。

「……新婚夫婦かよ……」

 いや新婚夫婦だったわ。まごうことなき新婚夫婦だったわ。
 口元を手で覆い、店のほうに歩き出す。顔がほんのり赤くなっている気がする、頬が熱い。
 忘れ物っつってキスしてくなんてのは、イケメンしかやってはいけないことである。仮にもあんなにかわいいアテナちゃんがやることでは……。

「嵐斗くん……またイった? かわいいね……」

 不意に夜のことを思い出して、背筋がぞわっとわななく。
 いや……うん……、アテナちゃんはイケメンだった。だから今の行動もまったく何も問題ない。俺の嫁さんはマジでイケメンなのである。

「おはよ」
「おはようございます!」

 店に着くと、開店準備をしていた宮間が挨拶をしてくれる。

「あれ? 五十畑さん今日早でしたっけ?」
「いや……遅なんだけど、出がけアテナちゃんがドタバタして、その混乱でつい一緒に出て来ちゃったんだよな」
「ドタバタ」
「早番なのに寝坊して、朝からばたばたうるせーのなんの」

 あ〜、と相槌を打って、にっこり笑う。

「アテナちゃん、やりそうっすね」
「だろ……ほぼ毎朝そうだよ……今朝も、時間ねーのにアイラインにやたら時間かかって」
「あんな目デカいんだからアイラインいらなくないすか」
「俺もそう思う」

 深く頷くと、宮間はなんとなくきょとんとしたような、不思議な表情をつくった。

「いいな〜、なんか、新婚って感じで」
「……しかも聞いてくれよ、さっき駅前で別れるとき、一回サロンに向かいかけたのに、忘れモンつって戻ってきたら……」
「きたら?」
「……公衆の面前で行ってらっしゃいのキスをぶちかましていきやがった……」

 しばし沈黙。

「……アテナちゃんクッソイケメンすね?」
「……だろ」

 宮間が、うっとりとため息をついた。
 俺たちの新婚生活は、今日も平穏無事に、送られている。

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