当たり前じゃないよ


 東京への帰りの電車で、嵐斗くんはぽつんと言った。

「俺、お父さん、もっと怖い人かと思ってたよ」
「なんで?」
「アテナちゃんが、ママはちゃらんぽらんだけどパパは……、とか言葉濁すから」
「濁したっつーか、パパはさみしがりのウサちゃんだから、反対しそうって思っただけ」

 はは、と嵐斗くんが笑って、たしかにそんな感じだった、と言う。
 夕暮れの街を窓から眺めながら、嵐斗くんがきゅっとまじめな顔をつくった。

「アテナちゃんは、俺のタイミングで、って言ってたけど、俺はアテナちゃんのタイミングも大事にしたい」
「……」
「それに、アテナちゃん曖昧にしてくれたけど、俺、ちゃんとご両親に、父親のこと言うよ」
「……めりぽんのときも思ったけど、わざわざ言わなくてもよくない? だって、嵐斗くんの親は愛子さんたちなんだからさあ……」

 なんとなく、嵐斗くんがあの気弱そうなおっさんに囚われてんのが気に食わなくて、ぶうたれてしまう。
 つり革を握っている嵐斗くんの横顔は、すごく穏やかだった。

「……アテナちゃんがキレると思って言わなかったけど、あの弁護士さんからまだ連絡が来るんだよね」
「今度来たらあたしに代わって? ぶっ殺したるわ」
「ハハッ、頼もしい」
「マジで何なの、一回ちゃんと断ったのに! てか代理人だかなんだか知んないけど、あの父親自分で連絡しようとか解決しようとかそういうの、ないの!?」

 電車が渋谷に着いた。あたしは明日早番だし、嵐斗くんの家のほうが渋谷に近いし、ということでそそくさと嵐斗くんと同じ電車に乗り換える。
 泊る? と聞いてきた嵐斗くんに頷いて、やってきた電車に乗った。運よく、座れた車内で、嵐斗くんが呟く。

「うん、それなんだよな」

 え、どれだ?

「俺たぶん、あの人が自力で迎えに来てたら、なんかもっと、対応変わってた気がする」
「……」
「結局、甘ったれなんだよ。俺は俺を大事に思ってくれる人を大事にしたいから」
「そんなの、甘ったれじゃないよ、当たり前のことだよ」

 自分のことを大事に思わない人を大切にしたって、疲れるだけだ。嵐斗くんは一個も間違ってないし、甘ったれでも何でもない。
 あの父親が、何を思って自分で行動を起こして嵐斗くんに近づかないのかは、分からない。もしかしたら気を使ってたり、それがあいつの愛情のかたちってやつなのかもしれない。
 でもそれは嵐斗くんが望んでいるかたちじゃないから。
 膝に頬杖をついて、下から嵐斗くんを見上げて、あたしは言う。

「あたしさ、ちっちゃい頃めりぽんのこと嫌いだったの」
「え、なんで?」
「三歳差じゃん、で、めりぽん生まれたときにあたし、パパとママ取られた気持ちになって、なんでなんでって思って、めりぽんのこと嫌いだった」
「……ああ」
「でもめりぽんは、いっつもあたしににこにこ笑ってくれて、あたしも、小学校入るくらいからかわいくなってきて……、そんでさ、あたしが高校生のときかなあ、ある日めりぽんが言うわけ」

 なんて? と吐息のように聞いてきた嵐斗くんに、そっと答えを返す。

「てなちむは人を大切にするのがじょうずだね、って」
「……?」
「あたし、自分じゃ分からんけど、身内をすげー特別扱いするらしくて、だから、あたしに優しくされると、自分はあたしの特別だってすぐ分かんだって。だから、うれしくなるんだって。で、ちっちゃい頃は嫌われてたんだなあって分かっちゃったんだってさ」

 嵐斗くんはちょっと考えるように、あたしと同じ姿勢になって目を合わせてきた。

「分かる気がする。俺も、アテナちゃんに大切にされてるって思うもん」
「ほんと? ならよかった。あたしのことも大切にしてね!」
「当たり前だろ」

 当たり前だろ、って嵐斗くんは言うけどそれは、ほんとは当たり前のことじゃないんだよ。
 もしかしたら今嵐斗くんのとなりで「大切」って言われていたのは魚雷さんかも、ほかの誰かかもしれないし、今たまたまあたしがここにいるけど、いつかそうじゃなくなっちゃうかもしれないんだよ。
 でも、嵐斗くんが、当たり前だろ、って言ってくれるうちは、あたしがそこにいたいんだよ。

「で、アテナちゃん」
「ん?」
「結婚、いつしよっか?」
「アハハ、いつしよっか」

 結婚するって何が変わるんだろう? とりあえずあたしの苗字が五十畑になるか、嵐斗くんの苗字が小森になるか、みたいなことは変わるんでしょ?
 そうすると……銀行口座の名義を変えて、パスポートを取り直して(高校のときに修学旅行で台湾に行ったときに取ったやつだからそろそろ切れるし、しばらく海外行く予定ないし、いっか?)、引っ越ししてサロンにいろいろ変更の書類出して、あとはなんだ……? あっ、クレカも名義変わるね!?

「ねえ嵐斗くん、提案があるんだけど」
「何?」
「名義変えなきゃいけないことが多いほうの苗字になるのはどう?」
「……? どういう意味?」
「だから、結婚して苗字変わったら、いろいろ手続きが必要じゃん? で、その手続き、少ないほうが楽じゃん? ってことは、苗字変わるのは、手続きが少ないほうにしない?」

 きょとんとした嵐斗くんが、少し考えるように視線をあさっての方角に向けて、それから、笑った。

「ははっ、なるほど、たしかに! いいよ、そうしよう。俺は別に、苗字にこだわりないし。それにしても、アテナちゃんこの短い間にそれ考えたの、すげえな」
「大事なことじゃん!」
「そうだけどさ、もっとほかに考えることあったろ?」

 ほかに考えること、と言ってから嵐斗くんは、記念日入籍とか結婚式とか新婚旅行とか〜と言い出す。頭の中お花畑か?

「嵐斗くんがいれば毎日が記念日だから、いつ入籍してもいいし」
「イケメンすぎん?」
「結婚式とか新婚旅行は籍入れてからゆっくりお金貯めつつ考えればいいじゃん」
「建設的」

 ちなみに今日は嵐斗くんがうちに挨拶に来た記念ね、と言うと、こどもみたいに顔をくしゃくしゃにして、じゃあ……と言う。

「じゃあ、俺にとっては今日はアテナちゃんがチョコレートを三枚食った記念ね」
「あっ! そんなこと言うの!? いいじゃん、だって六枚入ってて、家族は四人で……」
「別に悪いとか言ってないだろ」
「顔が言ってる〜!」

 わめいているうちに、電車は降りる駅に着いた。
 駅から家までの道で、嵐斗くんは笑いながら言った。

「なんか、アテナちゃんといると、絶対人生面白くなるって確証がわいてくる。退屈してる暇なんかねえなって思う。だから、俺アテナちゃんと一緒にいたいよ、一生」

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