無駄な抵抗はやめろ


 仕事はまあまあ忙しいし残業とか業務外の勉強時間もいっぱいあるけど、充実している。給料ほんと少ないけど……。
 労働環境は完全にブラックなんだけど、周りの人間関係がホワイトだし、まだ頑張れてるところはある。これで人間関係がブラックだったらあたし秒でこの仕事辞めてるわ。
 ウイッグマネキン相手にカットの練習をしながら、あくびを噛み殺す。

「アテナ〜、寝不足か〜?」
「違いますよぉ、寝るのが遅かっただけですぅ」
「それを寝不足っちゅうねん」

 あくびを見逃してくれなかったカンタさんがカラカラ笑いながらチェックをしてくれる。アドバイスを聞きながら、なるほど、なんて思いつつカットに取り入れてみれば、褒めてくれた。

「アテナはほんま飲み込み早いんよな、教えがいあるわ」
「ふはは、あざっす」

 今だって、これはほんとうは業務外なのに、あたしはサロンに残ってこうして練習している。まあ、先輩付き合わせといて何言ってんだって話ではあるが。
 こういうみんなの憧れの職業ってのはさ、えーとなんだ、あれ、あれ、やりがい搾取とかいうやつなんだよね。みんなやりたがるから、いくらでもなりたい人はいるから、待遇が上がらないしブラックな環境も変わんないの。
 かく言うあたしもやりがいを搾取されているうちのひとりなのである。
 でも、今日は八時までに先輩のOKをもらって退勤しないと!

「カンタさん今何時ですか?」
「今? 八時過ぎ」
「えっ」

 ヤバい。嵐斗くんもう上がってんじゃん? ハチ公の前で待ってるんじゃん?
 あわあわしだしたあたしに、カンタさんが首を傾げた。

「何? なんか約束あった?」
「八時からカレシくんとご飯の予定が〜……」
「アホかそういうことははよ言え。今日もう終わりな。人待たしたらあかん」

 そそくさと仕事道具をしまいながら、カンタさんがあたしに後片づけを命じる。それに従い慌ててマネキンを片づけてその他もろもろいろいろしまっていると、サロンの、道路に面したガラス壁がこんこんと控えめに叩かれた。
 振り向くと、こちらの様子を覗き込むようにして、嵐斗くんが立っている。

「お、嵐斗」
「お迎えとかヤバ。あたしどんだけ待たせてんだ」
「口動かしてる暇あったらはよ片づけ。あ、裏口の施錠お願いしてもええ?」
「カンタさん何気鬼ですね!?」

 嵐斗くんに目配せだけして裏口の施錠に向かう。急いで終えて、ついでに荷物も取ってきて、サロンの床に落として後片づけを続ける。
 普段ちんたら作業をするあたし史上最速で終わらせて、カンタさんにぺこっと頭を下げて慌ててサロンの正面から外に出た。

「ごめん!」
「ん。どーせ居残りと思ったから、待たずに歩いてきた」

 はなから迎えに行くつもりだった、と告げられ、きゅんとする。嵐斗くんそういうとこだぞ!

「メシ何食いたい? 俺今日すげえ肉の気分」
「嵐斗くん毎日肉の気分じゃん」
「うん」

 閉店からさっきまでぶっ通しで練習して、間食もしていなかったからものすごくおなかも減っているし、今日はあたしも肉の気分になってあげてもいい。
 渋谷の駅前に戻ってきて、店をスマホで検索しながら歩く嵐斗くんの腕に自分の身体を絡みつかせてスマホの画面を覗き込む。

「あ、ここおいしそー」
「ここにする?」
「うん!」

 めちゃくちゃ美味しそうな肉バルに入り、まずはビールを注文。水か? ってくらいの勢いで喉に流し込んだ嵐斗くんが、満足そうなため息をつく。

「仕事上がりの一杯、サイコーだわ……」
「今日仕事どんな感じだった?」
「あ? あー……、まあ、いつも通り」

 嵐斗くんは、某ブランドアパレルショップで副店長をしている。ちょっと骨太なストリート系の服だけど、いかつい嵐斗くんが着るとめちゃくちゃ似合うし、かっこいいのだ。
 正直あたしには高くて手が出ないけど、あたしが着たい服じゃないから別にいい。

「早番だったからね、眠い。メシ食ったら寝るかも」
「えー!?」
「ハハッ」

 注文したお肉のプレートが来て、フィルターをかけて写真を撮る。それをとりあえずインスタに、いろんなタグと一緒にアップして、いただきますをする。
 食べながら、嵐斗くんがあたしの長い髪の毛をいじくっている。もう酔っ払ったか。

「アテナちゃんさあ、黒髪にしないの?」
「え、まさかの清楚系が好みか、嵐斗くん」
「いやそうじゃなくて、逆に似合いそうかなって思った」
「えー。黒かあ……一週間でキレそう……」
「何にだよ」

 けらけら笑っている嵐斗くんが、ゆるく巻いたあたしのシルバーアッシュの髪の毛を指に巻きつけてじっと見ながら、傷んでんな〜と呟く。
 そりゃ、ブリーチとカラー繰り返してたら、ねえ。でも傷んだ髪ってセットしやすいとこもあるし楽なんだけどね。インナーに入れたモーブ、けっこうイケてるはず。

「嵐斗くんは髪の毛染めないの?」
「硬派でいいじゃん?」
「こーは? どの口が言う」
「ハハハ」

 嵐斗くんの髪の毛は、あたしが練習台としていつも彼の部屋の風呂場で切っている。最近はずっと、ツーブロに軽いリーゼントだ。このバシバシの髪を毎朝あの洗面所で嵐斗くんがセットしてるのを想像すると、ちょっと楽しくなる。
 一応お風呂からは独立してるけど、狭くて、嵐斗くんの歯ブラシやコップに香水や整髪料が棚に所狭しと並び、洗濯機の上に脱いだ衣類を入れておくカゴがあって、あたしはあの小さい箱を、嵐斗くんの生活感を一番感じられる場所だと思っているのだ。

「アテナちゃん、次休みいつ?」
「次はね〜、一応火曜日が定休日だからそこかな〜」

 煙草に火をつけた嵐斗くんを尻目にスマホを開いてシフトを見ながら、やっぱり次の火曜までお休みがないことを確認する。ちなみに今日は金曜日。え、ってことはあたし月曜まで働いたら七連勤じゃない? は〜? ブラックすぎ。

「美容師って休み少ねえなあ……」
「うーん、……あ、でも水曜もお休みだから二連休!」
「……かなり悲しいこと言ってんの分かる?」

 分かる〜。

「嵐斗くんは次休みいつ?」
「月曜」
「ちなみに今何連勤目?」
「今日で一連勤」
「一は連勤じゃないです〜」

 嵐斗くんのとこは労働環境はブラックなくせに、シフトだけはホワイトだ。五連勤以上が入っているのを見たことがない。シフトだけは。
 煙を美味しそうに吸いながら、嵐斗くんは思い出したように言う。

「どっちも明日出勤だし、今日はお泊りやめとくか?」
「ええ、嵐斗くんの家から出勤するぅ」
「別にいいけどさ、寝不足なって朝起きれんくなっても知らんぞ」
「は? 朝起きれんくなるの嵐斗くんのほうじゃね?」

 嵐斗くんが危惧しているのが、夜の仲良しのことだってのは分かるんだけど、それで言ったら足腰立たなくなって朝泣くのは嵐斗くんのほうなのに、何言ってるんだろう?
 そう思って真顔で返せば、嵐斗くんは一拍置いて、煙草を指に挟んだまま頭を抱えた。

「今日は俺が突っ込む……」
「……いや、だから嵐斗くん、もう前だけじゃ無理だって」

 プレートに残っていた最後のお肉にフォークを刺して口元に持って行き、かぶりつく。ミディアムレアの焼き加減、肉汁が口元をこぼれてテーブルに一滴のしずくをつくった。
 口端を汚した肉汁を舌でぺろりと舐め取ると、嵐斗くんはそれを見ながら、さっきまでの雄みはどこへやら、おずおずと聞いてくる。

「ちなみにヤらないっていう選択肢は」
「ないよね」
「いや、ていうか……なんつーの……、……試す、ってのはどう?」
「試す?」
「前だけでイけたら、今後はふつうのえっちをな?」

 ちょっと可哀想になってきちゃったけど、今日もどうせお尻揉んだら嵐斗くん即堕ちだし……どうすっかな……。

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