馬鹿は引かない

　久しぶりに仕事が定時で終わった。早番で、お客さんの急なオーダー変更もなく、すべてがうまくいった。
　嵐斗くん、今日遅番って言ってたっけ。渋谷の駅前に向かいながら、ちょこっといたずら心がわいて、くるりと振り向いて嵐斗くんのお店に向かう。
　遅番ってことは閉店までだから、七時過ぎの今はまだ余裕でいるはず。
　お店は、ちょっぴりハイブランド（とは言え、あたしぐらいの年代の人たちが手も足も出ないほどではない）で、路面店だ。
　お店の前に行けば、やっぱり若い人たちでそこそこにぎわっている。……そこそこというか、ちょっと混んでる？
　もう三月なんだから春の新作が出るには少し遅いし……と思っていると、店からショッパーを提げて出てきたカップルが何やら話をしている。

「さすがに七時台だと遅かったかあ〜」
「仕方ねえよな、限定品出ると始発とか徹夜で並ぶ人らいるし、なんか最近転売厨とかすげえじゃん」
「あーね。あのシャツも五倍くらいの値段で転売されるんかな〜」

　なるほど、限定アイテムの発売日。限定アイテムは手に入らなかったけど、何かしらは買ったみたいな様子のカップルは、そのまま渋谷駅方面に歩いて行った。
　……じゃあ今日忙しいのか。客でもないあたしがのこのこ入って行って雑談〜ってわけにもいかないか。
　名残惜しく、店の外から様子をうかがっていると、店員さんらしき人とばっちり目が合った。逸らす理由もないので見つめ続けると、あちらもガン見してくる。
　しばらく見つめ合ったのち、その店員さんはふっと視線を外して店の入口に向かってきた。あ、やば。
　ドアから出てきたおにいさんは、あたしをちらっと見ると、表に出していた限定アイテムのお知らせっぽい背の低い看板を畳み、片づけ始めた。それをじっと見ていると、さすがに居心地が悪くなったのか振り向く。

「……店内少し混雑してますけど、ご覧になりたいなら全然お入りください」

　嵐斗くんより年下には見えないけど、人の年齢は分からないものなので、意外とあたしと同年代だったりするのかもしれない。と思いながら首を振る。

「知り合いが働いてるからちょっと顔を見に来たんですけど、今日忙しいみたいなんで帰ります」
「誰すか？　急用なら呼んできますよ」
「あー……ら、……五十畑さん。でも、いいです、忙しいでしょ」
「五十畑なら今日休みですけど」

　あれ？　今日出勤になってたよな？

「え？　でもシフトは出勤ですよね？」
「……なんでうちのシフト知ってるんですか？」
「あ、えっと……」

　嵐斗くん、あたしがカノジョって知られてもいいのかな。まずいかな。いやでも出勤なのに休みってことはなんかあって急にお休み取ったってことでしょ……。

「……五十畑さんのカノジョです……」
「…………」

　おにいさんが目を丸くした。そうすると、いかつい見た目だったのが意外と幼くなる。

「え、あ。じゃあ美容師の、アテナちゃんだ！？」
「……あ、そっすね……」

　叫んだおにいさんに、嵐斗くんけっこうおおっぴらにいろいろ言ってんだな……と遠い目をしたくなる。
　一気に距離を詰めてきたおにいさんに一歩引くと、まくし立てられる。

「五十畑さんから仕事上がりの飲みでけっこう話聞くんすけど、え、本物じゃん！　え〜ふつうにかわいい。目ぇデカ！」
「……ども」
「ってちげーわ。こんなこと言ってる場合じゃない」

　わんこみたいな親近感のおにいさんが、咳払いして、いきなり深刻そうな顔をつくる。

「実は五十畑さん、今日の朝出勤してきたときから様子おかしくて、測ったらすげー熱あって、病院ぶち込んで早引けさせたんです」
「え、嵐斗くん風邪！？」
「インフルじゃなかったみたいなんですけどね、三十九度くらい出てたんで、かなりきつそうでした」
「それ駄目なやつ！」

　三十九度って、ヤバいやつじゃん！　もうちょっとで四十度いっちゃうじゃん！
　あわあわしながらおにいさんにまくし立てる。

「嵐斗くん入院したんですか！？　ちゃんと注射打ったの！？　点滴は！？」
「病院でどんな治療受けたかは知らないすけど、病院のあと家に帰ったみたいですよ」
「あっマジか！？　分かりました！　ありがとう！」
「お見舞い行きます？」
「行きます！」
「お大事にって、宮間が言ってたってお伝えください」
「ミヤマさんね！　分かりました！」

　ミヤマさんに手を振って、渋谷駅のほうに慌てて走っていく。あたしを見送りながら、ミヤマさんはちょっと声を上げた。

「ゲロったみたいなんで、ゼリーとか買ってってあげっといいかも！」
「あざっす！」

　ミヤマさんめっちゃいい人！
　山手線のホームを駆け抜ける。乗り換えのとき、一番階段から近くなる車両が停まる位置につけて電車がやってくるのを待つ。
　待ってる間、ラインを開いて嵐斗くんのトーク画面を出す。

「お見舞い行くからね！」

　返事は別にいらないけど、もし寝てたりしてこれの通知で起こしちゃったりしたら可哀想だな。でも言わずに行くのはよくないよな。
　返事いらないよ！　寝ててね！　と続けざまに送信し、やってきた電車に乗り込んだ。
　あたしの気持ちだけが先走っちゃうけど山手線は各駅停車だからのろのろだ。ようやく乗り換えをする新宿に着いて、ダッシュで階段を下る。
　中央線に乗り換えて、嵐斗くんの住む町で降りて、全速力で改札を通り抜け、家を目指す。

「あっ！」

　ミヤマさんの言葉が頭をよぎる。
　嵐斗くんのおうちに病人食があるかどうか分からない。から、マンションに向かう途中のコンビニに駆け込む。
　冷蔵庫の前でうろうろして、吸うタイプのゼリーとスポーツドリンクと、あとパウチのおかゆとおでこに貼る冷却シートを買った。
　スマホでレジを済ませようとしたら、嵐斗くんからの返事が来てることに気づいた。とりあえず支払いを済ませてからそれを開く。

『うつるから来なくていいよ。心配かけてごめんな』

　…………。

「はあー！　馬鹿か！」

　スマホに向かって怒鳴り、それに返事をしないでマンションまでの道のりをダッシュする。
　あっという間にマンションについて、嵐斗くんの部屋の前ではたと動きを止める。
　だらだらと汗が出る。
　あたしは嵐斗くんの部屋の合鍵を持ってない。

「う、うううう」

　めちゃくちゃ非常に申し訳ないけど、インターホンを押した……。
　少しして、カメラであたしを確認したらしい嵐斗くんがドアを開けてくれた。

「来なくていいつったのに……」

　スウェットにゆるゆるのカーディガンをはおり、マスクをしても隠れ切らない赤い顔。

「ご、ごめんね、具合悪いのに開けさせちゃって……」
「ん。いーけど」

　咳は出てないみたい。じゃあなんでマスクしてるんだろ？

「……アテナちゃんにうつるかもしれないだろ」
「え！　あたしのせいか……」
「いや、アテナちゃんのせい、じゃなくてアテナちゃんのため、と言うのが正しい」

　寝室に引っ込んだ嵐斗くんを横目に、冷蔵庫に購入品を突っ込んでいく。とりあえずスポーツドリンクだけ持って、寝室に向かった。

「嵐斗くん、これ買ってきた。飲めそ？」
「ン」

　ベッドに座り込んだ嵐斗くんが、弱弱しいしぐさでペットボトルのふたを開け、マスクを下げてひと口飲む。

「アテナちゃんさ、帰りな。マジでうつるから」
「ダイジョブだって、馬鹿は風邪ひかないって言うじゃん」
「……ハハッ」

　凛々しい眉を下げて笑った嵐斗くんが、ペットボトルをあたしに手渡し横になる。
　とりあえず、ペットボトルをヘッドボードに置いて、嵐斗くんのおでこに手を当てた。

「人間の温度じゃねえじゃん！」
「ところがどっこい人間なんだよなあ……」
「嵐斗くん、お薬飲んだ？　何か食べられそうなら、ゼリーとかおかゆとか……」
「一応、病院でもらった解熱剤は飲んだよ。あーでも、一日二錠か……」

　遅番で出勤してソッコーで病院行かされたってことは、もう最初にお薬を飲んでからずいぶん経ってるのかもしれない。
　冷蔵庫からゼリーを持ってきて、さっきペットボトルを開けるのに苦労していたようだったから、開けてあげて、口元に寄せる。

「アリガト」

　お礼を言って吸い始めるが、なかなか中身が減っていかない。

「……嵐斗くん、無理なら吸わなくていいよ」
「あー、うん……昼に朝飯吐いてっから、ちょっとビビってはいる……」
「そっか。お薬って、解熱剤だけ？　胃薬とかは？」
「うん、胃薬も一緒に処方された」
「じゃあ、もうお薬飲んじゃお」

　枕元に置いてあった病院の薬の袋から、種類の違うお薬のシートを出して一錠ずつてのひらにあけて、嵐斗くんに飲ませる。スポーツドリンクを持たせてあげると、嵐斗くんは口の中にお薬を入れたまま意外そうに言った。

「なんか、アテナちゃん手慣れてんね？　薬の種類とか、看病の手順とか……」
「ん？　そう？　あ、そっか、あたし妹いんだけど、めっちゃ風邪ひきやすくて、よく看病してたからかな？」
「へえ……」
「あとパパ薬剤師」
「……へえ」

　パパの話題を出すと顔が引きつった気がするけど、今はそれに構っている場合ではない。
　お薬を飲むように促して、飲み込んだのを確認し、横たわらせて毛布をかぶせる。

「蒸しタオルつくってくるから、寝てていいよ」
「ん、マジでありがとう……」

　たぶん、あたしと喋っているのもほんとうはきつかったんだろう。嵐斗くんはすぐに目を閉じてしまった。
　休んでいるのを邪魔しないようにそっと立ち上がり、洗面所から適当に取ったタオルを濡らして電子レンジにぶち込む。それから、冷蔵庫でちょっとだけ冷やした冷却シートを一枚取って、寝室に戻る。

「ちょっと首上げるね。冷たいよ」

　嵐斗くんの首を、お客さんのシャンプーをするのと同じような感じで持ち上げて、首の後ろに冷却シートを貼った。
　それから、蒸しタオルで額や首筋の汗を拭う。嵐斗くんがうっすら目を開けた。

「…………アテナちゃんがマジで看病心得てて、俺本気でビビってる……」
「はっはっは、寝なさい」

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