ジャンプでしか許されない


 長いこと黙っていたような気がするけど、もしかして一分も経ってないのかもしれない。
 愛子さんが口を開いた。

「あなたは、信頼できる人なのかしら?」
「え?」
「あなたに嵐斗を預けて、ほんとうに大丈夫かしら?」
「……」

 そう聞かれると、はい、ときっぱり言い切れない。あたしは嵐斗くんのことが大好きだし、魚雷女が教えなかった嵐斗くんの過去を、もし知ることができたら教えてあげたいとは思う。
 でも、それを、魚雷女やこの愛子さんが望まないのなら、事実を知る人たちがそれを望まないのなら、もしかしてあたしだって知っても教えるのに尻込みしてしまうかも、しれない。
 果たして、結婚とかすらまだ考えてないようなあたしが、嵐斗くんの過去や未来を背負っていいのか。それは分からない。

「……職場の人に、嵐斗くんの実家に遊びに行くって言ったら、結婚のことを聞かれました。あっ、あたし美容師なんですけど」
「……」
「あたしは、全然まだ結婚とか考えてなくて、嵐斗くんは、真剣に考えてるとは言ってくれたけどどこまで考えているのかも全然分かんなくて……、でも、嵐斗くんが大好きです。嵐斗くんが苦しんだり悩んだりするのは、見たくないです。もし、すごく嫌な過去だったとしても、嵐斗くんが知りたがってるなら、どうにかして知らせてあげたいって思うし、知って嵐斗くんが傷ついたら、支えてあげたいって思います」

 全部、本心だ。
 嵐斗くんが苦しむのは見たくない。もし、嵐斗くんの失われた十二年間がすごくつらい記憶だったとしても、それを知らされて嵐斗くんが余計苦しんでも、あたしはそれをとなりで、嵐斗くんが崩れ落ちないように支えてあげたいって思う。
 嵐斗くんのためにできることは、なんでもしたいよ。

「幼馴染っていうのは、真奈美ちゃんのことね?」
「あ、はい……」
「あの子は、……知らないから嵐斗に教えられないのよ」
「……へ?」

 愛子さんは、よく分からないことを言う。

「職員の中に、昔話が大好きな人がいるから、嵐斗はきっと三十分は帰ってこない。これから私があなたに話すことを、嵐斗に伝えるも伝えないもあなたの自由よ」
「え」
「嵐斗は長野出身じゃないの」
「え」

 情報がしっちゃかめっちゃかになって、何が何だか分からない。えっと? 魚雷女は知らなくて、嵐斗くんは長野出身じゃなくて、ここは長野で、魚雷は藤沢出身で……?

「嵐斗はもともと宮城で生まれて育った子。でも、小学六年生のときにここにやってきてからは、私とこの園の人間が嵐斗を育てた。そうしなければならない事情があったからよ」
「じ、事情……」
「ここにいるこどもたちは、いろんな事情があって親元を離れて暮らしている、……っていうのは分かるわね?」
「はい……」
「嵐斗は、幼い頃に両親が離婚して、父親に引き取られているわ。実の母親についてはさすがに知らないけど、父親いわく最悪の母親ではあったみたい。そして、父子家庭で小学校時代のほとんどを過ごした。でも、父親にはあるとき恋人ができた。再婚を考えるようなまじめな交際だったそう」

 ここにはあたしと愛子さん以外はいないのに、愛子さんはひそひそと話す。真剣に聞いていないと、聞き逃しそうな音量だ。

「父親は嵐斗にも彼女を紹介して、嵐斗も彼女を母親として受け入れた。同居も始まって、再婚へ向けての準備や調整も進んだ。うまくやれるはずだったのよ」
「……はず、だった……」
「そう。はずだった」

 そこで愛子さんが頭を抱えた。さっきまでにこにこしながら嵐斗くんと喋っていた人と同一人物とは思えないくらい、その優しげな顔から表情が消えている。
 思わず、ミルクを入れまくったコーヒーに手を伸ばす。ひと口飲むと、もうすっかり冷めていた。それだけ長い間、嵐斗くんと愛子さんがお喋りをしていたのだと分かる。
 ちら、と壁掛けの時計を見る。嵐斗くん、あと三十分戻ってこないって、ほんとかな。

「…………嵐斗に記憶がないのは、仕方のないことだと思っている」
「え?」
「私は、……正直、嵐斗がどれだけ知りたがっても、やっぱり伝えないほうがいいんじゃないかと思っている」
「……」

 それほどのひどい出来事が、記憶が、嵐斗くんにはあるのだ。それを確信して、ごくりと唾を飲む。

「……ごめんね、やっぱり言えないわ。だって人間は秘密を持ったらひとりで抱えることに耐えきれずに誰かに言ってしまうものよ。あなたはきっと嵐斗に言ってしまう。それを思うと、やっぱり言えないわ」
「そんな……」

 ここまで思わせぶりにしといてそりゃないぜ……。

「真奈美ちゃんは、小学校の途中でここの近くに越してきた。あの子が、施設育ちなせいで学校で除け者にされていた嵐斗を助けたのは事実だけどね、あの子は知らない」
「……何を?」
「あなたにはまるで知っているふうを装ったんだろうけど……真奈美ちゃんは、嵐斗に何があったのか、知らないのよ」
「…………はあ!? あんだけ匂わせしといて!?」

 嵐斗くんの過去を知ってるような口ぶりで、あんだけ引っ張ったあげくに知らんだと!?
 人をおちょくるのも大概にしろ!

「真奈美ちゃんは昔から正義感の強い子だったから、いじめられている嵐斗を放っておけなかったんでしょうね」
「でしょうけどね!?」
「……あなたは、嵐斗を可哀想だと思う?」
「ええ? いや全然……。そりゃ記憶がないのはさすがにちょっと悲しいなって感じですけど、でもそれが嵐斗くんにとってつらい記憶だったなら、そのときの嵐斗くんが自分で封印したんなら、仕方ないなって思います。知る権利はもちろん、嵐斗くんはもう大人なのであると思いますけど」

 嵐斗くんが育った環境や、どんないじめを受けたかは知らない。でも、可哀想だとは思わない。
 まあただ、こうして知る権利があるのに隠されてるのはちょっと可哀想かなって思うかな? って気持ちで、ちょっぴり嫌味っぽく言ってみたけど、愛子さんには伝わらなかった、というか流されたみたいだ。

「……それなら、安心だわ」
「へ?」
「真奈美ちゃんは、結局、施設に預けられた嵐斗を、可哀想だと思っていたから」
「…………」

 マナミといると俺はいつも可哀想なこどもだった。
 嵐斗くんの言葉が、よみがえる。嵐斗くんからも、周りから見ても、そうだったんだな。

「ここにいるこどもたちは、たしかに両親の元で育てられてはいない。でもね、代わりに私たち職員がたくさん愛情をそそいでいるの。だから可哀想だなんてことは絶対にないのよ。むしろ、両親の元で育てられればふたり分しかそそがれない愛情を、職員分そそがれているのよ、幸せなくらいだわ」
「おお……たしかに!」

 職員が何人いるかは知らないけど、そりゃそうだ。それに、問題のある親よりも問題のない他人が育てたほうがうまくいく可能性だってある。
 テレビで、実の親だろうが義理の親だろうが、虐待のニュースを見るたびに、結局子育ても愛情と技術だって思う。美容師とかと一緒だ。
 愛や技術のない親より、愛と技術にあふれた他人のほうが、きっとうまくこどもを育てる。
 嵐斗くんの過去は結局すごく気になるところで濁された(ジャンプだったら来週まで待てないレベルの引きだ)が、きっと嵐斗くんの父親と義理の母親になるはずだった人には、愛と技術がなかったのだ。

「ただいま。アテナちゃん、愛子さんに変なこと話してないよな?」
「……嵐斗くんが寝言でラーメンって言ってお祈りしてたのは話した」
「ちょっと待ってそれ俺初聞きなんだが?」

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