権利をほしがる男


 嵐斗くんの家に移動する道のりは、当たり障りない近況報告にとどまった。あたしも、たぶん嵐斗くんのほうも、電車の中や道端でする話じゃないと分かっていた。
 嵐斗くんがドアを開けてあたしを中に入れてくれる。スニーカーを脱いで揃えて、短い廊下を進んでダイニングへ入る。
 話をするからダイニングかな、と思っていたら、案の定嵐斗くんは暖房のスイッチを入れてから、テーブルと椅子を示してそこ座っててと言って、自分はキッチンに向かい何か飲み物を用意してくれるみたいだった。
 アウターを脱いで薄手のセーター姿になった嵐斗くんの背中をじっと見る。男前な背中だ。きれいな逆三角形。いつ鍛えてんだ?

「はい」

 今日は、スティックのほうじ茶ラテをつくってくれたみたいだ。和風の甘い匂いがただよう。

「ありがと」

 まだ熱くて飲めたものじゃないそれを両手で握りしめて冷えた手を温めながら、あたしは泡立った水面をじっと見つめて言った。

「嵐斗くん、あたし、ちょっと傷ついてるよ」
「……」
「なんで嘘つくの」
「……」
「ほんとは、あの女に、あたしに近づくなって言いに行ったわけじゃないんでしょ」

 嵐斗くんはずっと黙っている。呼吸音すら聞こえなくて、なんかもしかして嵐斗くん死んでる? と思うくらい静かだった。
 だからあたしが喋り続けるしかない。

「それだけのこと言うのにわざわざカフェなんか入らないし、あんなに長々喋ったりしない」
「……」
「なんで黙ってるの、ねえ、なんで?」

 悲しいと思っていた。嵐斗くんに嘘をつかれて、さみしいと思っていた。
 でも今はちょっとイライラしてきた。ここで黙るということは確実にあたしの言っていることが図星であるにもかかわらず、まだ何かを隠し通そうとする嵐斗くんに、だ。
 そもそもあたしはじめじめするのが嫌いだ。もし自分が今死んだら葬式では意味の分からない切ないBGMなんか流さないで髭男の「Pretender」を流してほしいくらいなのだ。
 グッバイ!

「話がしたいってあたし言ったよね?」
「……」
「で、分かったって嵐斗くん言ったよね?」
「……」
「喋れよ!」

 だあん! と拳をテーブルに叩きつける。ちょっとマグカップが揺れた。嵐斗くんの肩も揺れた。

「……俺は」
「何」
「そうやってアテナちゃんに、悲しんでもらう資格も、怒ってもらえる権利もないんだ」
「は?」

 やっと喋ったと思ったら意味不明なことを言い出す。

「そんな資格誰も持ってなくない?」
「……え」
「いや、あたしが悲しんだり怒ったりするのはあたしが勝手にすることで、そういうのに資格とか権利とかなくないか?」

 たとえばあたしが道歩いてて向こうからぶつかってきて謝らないヤンキーに怒りを覚えたとして、それはそのヤンキーが怒ってもらう権利を得たのか? 違うだろ。

「嵐斗くんにイライラしたり、嘘つかれて悲しくなるのは、あたしが勝手にやることだから、嵐斗くんには関係ない」
「……」
「で、なんでそんなこと言うの」

 そんなくだらないことを言うのには、当然そう思った理由があるのだろう。

「……マナミに会ったのは、もちろん、アテナちゃんにつっかかるのをやめろって言いたかったのもあったけど」
「……」
「俺が、知りたかったから」
「何を」
「俺の、過去を」

 部屋があったかくなってきたのに、なんだか心が寒々していた。
 あたしが知らない、嵐斗くんも知らない、そんな嵐斗くんの過去を、あの女は知っている。そのことがただ苦しかった。

「……なんで知りたいの?」
「だって、この先アテナちゃんとどうにかなるってなった上で、アテナちゃんの家族に挨拶に行くこと考えて、そしたらやっぱり親がいないってのはハンデになるって思ったから」
「だから、この前言ったじゃん、そんなの気にしなくて……」
「アテナちゃんがよくても俺が気にするんだよ!」

 悲鳴みたいだった。
 あたしがよくても嵐斗くんが気にする。そんなのは、考えたことなかった。
 あたしがいいなら、何も問題のないことだと思っていた、嵐斗くんの過去は。でも当然そうじゃない。
 自分が気にしていることを誰かが、気にしないよ、と言ったところで、そうだよな、本人はそのまま気になるものだ。気にしないと言われたからすぐに悩みの種が消えるわけじゃない。
 そんな簡単なこと、なんで気づけなかったんだろう。

「……それで、……」

 魚雷女から、記憶のないときのこと、聞けた?
 そう、聞こうとしてためらった。だって嵐斗くんが、あの女がごまかしたってことは、あたしには言えない、っていう結論に至ったからなんでしょ?
 もごもごと口の中で、どうしようか聞こうか聞くまいか悩んでいると、嵐斗くんは首を横に振った。

「聞けなかった」
「え……」
「マナミは、俺のためにならないから絶対に言いたくないって」

 嵐斗くんの顔がめちゃくちゃ真っ青になっている。
 そりゃそうだ、嵐斗くんのためにならない過去ってなんなんだ。口にできないほどのことってなんなんだ。
 さすがにあたしも、背筋が伸びて息が詰まる。

「どんなにキツイことでも教えてほしかったって思うのは俺が間違ってるのか?」
「……」
「六年生からいきなり始まった俺の人生、取り戻したいって思うのは間違ってるのか?」

 あたしが、と思う。
 あたしがもし魚雷女の立場ならどうしただろう。嵐斗くんのひどいんだろう過去を知っていて、それを教えてほしいと本人にせがまれたら。
 結局、考えてみたところで、あたしは嵐斗くんの過去を知らないからどんな判断もできない。

「……それで、嵐斗くんは、どうしたいの?」
「え……?」
「事情も知らずに勝手に怒っててごめん。で、あたしはこれからの話がしたい」
「これから……」

 魚雷女に過去をそんなふうに隠されて、嵐斗くんも困惑したし怖いんだろう。それを、知らなかったとは言え、秘密にされたとひとりで拗ねていたことを謝る。
 それから、嵐斗くんと考えていかなくちゃいけないことを並べる。

「嵐斗くんは、どうしても自分の過去を知りたい?」
「そりゃ……」
「魚雷女が隠したがった理由なんかあたしにも分かんないけどさ、あたしが、今のままの嵐斗くんでいいって思ってるだけじゃ駄目かな」
「……」

 どうしても知りたいなら、あたしにだって考えがあるんだから。嵐斗くんには言わないけど。
 魚雷女にめらめらと敵対心を燃やしながら、あたしは嵐斗くんの答えを待った。

「……やっぱり、知りたくは、あるかな……、知ったあとで、知らなかったほうがよかったと思うとしても、俺のことなんだから知る権利はあるだろ?」
「嵐斗くん、権利とか好きだねえ」

 よっしゃ。あたしに任せとけ!

 ◆

maetsugi
modoru