最後が締まらない


「アテナ、今平気か?」
「あ、はい」

 休憩室でずるずると麺をすすっていると、今は予約のお客さんがいないのだろう、カンタさんがにゅっとドアから顔を出した。
 いったん食べる手を止めると、カンタさんは近づいてきてテーブルの向かい側の椅子に座り、頬杖をついて眉を上げた。

「なんかあったん?」
「へ?」
「最近、けっこうしょうもないミス多いで。こないだなんかお客さんの名前間違うとった」
「あ……すみません……」

 ここんところ上の空なのは認める。カンタさん本人が見かねたのか、それともほかの人がかは分からない。でもとりあえず、あたしへのお説教はカンタさんが請け負ったということだ。
 お説教、と茶化して言ってはみたものの、これは正当なお叱りである。あたしは最近ダメダメだからだ。それこそこの間はカラーをしながらめちゃめちゃナチュラルにお客さんの名前を間違えた。

「別に説教したろとか、怒っとるとかちゃうで。ただ、なんや気になることあるんやったら話してほしい。あ、もちろん俺に言える範囲でな。プライベートなこととか、よう言わんこともあるやろし」
「……カンタさん、たとえばなんですけど、奥さんがカンタさんに「明日モトカレと会ってくるけどやましいことはなんにもないから」って言ってきたらどう思います?」
「嵐斗ぶっとばしたろか?」

 即座に事情がバレた。まあそうだよな。
 身を乗り出したカンタさんが、ぐっと眉を寄せる。

「嵐斗が、そう言ったんか? モトカノと会うてくるけどなんもないから安心してや、て?」
「はあ、まあ……いやそれであたし一個謝んなきゃいけないことがあるんですけど」
「なんや」
「先週熱出て休んだの仮病です……嵐斗くんがモトカノと会うの気になりすぎて尾行しました」
「かまへん。俺かてそうする」

 ほんとか? かなり疑わしい。

「つうか、そのモトカノって、魚雷ちゃんか?」
「そうです」
「で、どうやったん。何話しててん、ふたり」
「……なんか……魚雷女が言うには、嵐斗くんは、もうあたしに近づかないでくれ、って言ったみたいなんですけど」

 魚雷女はたしかに、そう言った。「嵐斗に、あなたにいろいろ言うのをやめろって言われたのよ」と。
 でも。

「ほんならよかったやん? 直談判に行ってくれたんや」
「とてもじゃないけど、そうは思えなくて」
「と言うと?」
「あたしに文句言いに来るくらい未練があるモトカレに突き放すようなこと言われたわりには、平然としてたっていうかあ」

 そもそもそれを言うためだけにあんなお洒落なカフェに入って長々と話さない。あたしは絶対信じてない。
 そう言った魚雷女のことも、それに頷いた嵐斗くんのことも。
 カンタさんのゆるいウェーブがかかったトランクスショートがふらふら揺れる。カンタさんは考え事をするとき身体が揺れる。

「それって……嵐斗が嘘ついたってことか……」
「ほんとは、あたしに話せないようなことを喋ってたんだ」
「なんやろな、それ」
「さあ。だから今あたし嵐斗くんと連絡取ってないです」

 カンタさんが顔を引きつらせた。あたしのマジっぷりを感じ取ったのだろう。
 嵐斗くんからの連絡を全部未読無視の着信スルーしてたら、とうとうおとといくらいから連絡が来なくなった。
 嵐斗くんだって暇じゃない。暇じゃないうちの隙間を縫ってあたしと連絡を取ろうとしていることくらい分かる。でも、不安にさせられて嫌な気持ちにさせられて、その上裏切られたあたしの気持ちは簡単にはおさまらない。

「……なんやえらいことになっとるなあ」
「……でも、カンタさんだって、奥さんがそういうことしたらぶっとばすんでしょ?」
「それは口が滑っただけや」
「……」
「拗れる前にどうにかせなあかんで、アテナも嵐斗も」

 カンタさんが立ち上がり、冷蔵庫を開けた。そしてあたしの前にプリンを置く。

「これあげる」
「え、これ」
「ファウンドリーのプリン」
「えー! 高いやつじゃないすか!」
「さっきお客さんからもろてん」

 これあげるから嵐斗とちゃんと話して仲直りしいや、と言って、カンタさんは休憩室を出て行った。
 カンタさんが嵐斗くんのことを呼び捨てにするのは、五年くらいずっと、嵐斗くんのカットを担当していたからだ。
 それを、あたしがカットモデルという体で横から掻っ攫った当初は、ゲラゲラ笑いながら嫌味をたくさん言われた。ぽっと出の新人に俺の顧客盗られてもおた、と引くほど笑いながら罵られた。
 本気で言っていたのかどうかは分からない。でもたぶん違うと思う。嵐斗くんは接客業のくせにマメにカットにくるほうじゃなかったらしいから、顧客は顧客でも太客ではないのだ。
 今は、あたしが定期的にちゃんとしているので、いつもきれいになっている。
 そういえばそろそろまた切ってあげないといけない頃かあ……。
 このまま、駄目になっちゃうのかな。そしたら魚雷女の思うツボかあ……。

「いや駄目だろ」

 駄目だろ! 何弱気になってんだよ! 嵐斗くんのかわいいお尻はあたしのもんだろ!
 テーブルに投げ出していたスマホを引き寄せて、嵐斗くんのトーク画面を開いて文字を打つ。

「今日の夜空いてる? 話したい」

 送信したあとで、あ、と思う。なんかちょっと文章硬かったかなあ……。
 でもどうせ送っちゃったし、嵐斗くんはきっともうお昼休憩も終わってるだろうし仕事終わるまでスマホ見ないだろうし。もういいや。話さえできればなんでもいい。
 って思ってたら、既読がついてぽこんと吹き出しが現れた。

『何時に終わる? アテナちゃんの家で待ってる』

 首を傾げる。もしかして嵐斗くん、今日休みだったのかな。

「今日お休み?」
『うん』
「そっか。今日は早番だったから残業なければ七時くらいには家に着くよ」
『分かった』

 よかった、いつもの嵐斗くんだ……。あ、なんかこれフラグっぽいからやめよう。いつもの嵐斗くんかどうかは会ってから決めよう。
 というわけで、午後(もうすでに午後三時なんですけどね?)の仕事を黙々とこなし、あたしがシャンプーをする最後のお客さんがうっかり予約外のカラーをオーダーしたのでちょっぴりお尻が伸びて、あたしはほぼほぼ定時で帰路についた。
 渋谷からちょっと遠いんだけど、山手線沿線なのに家賃がまあまあ安いので決めたアパートに帰る。ちなみに山手線沿線だけど、駅までは二十分くらい歩く。
 最寄り駅について、家までの道を歩きながら、ふと思う。そういえばあたし嵐斗くんに合鍵渡してないな?
 スマホを見る。七時半過ぎを表示している。嵐斗くんが三十分くらいこの寒空の下で待っている。

「うおおお」

 気づいた瞬間走り出していた。帰宅を催促する連絡などがないあたり、あたしの職場の事情を分かっている嵐斗くんらしいけど、今ばかりはその気遣いがしみる。
 残り十分くらいの道のりをダッシュしたせいで、普段運動しないのですぐに息が切れて、しかも冬の空気は乾燥していて喉がひりつくように痛い。
 げぼげぼと汚い咳をしながらアパートについて、自室のある二階に続く階段を駆け上がると、共同廊下の手すりにもたれ掛かっている嵐斗くんがいた。

「おかえり」
「ただ……いま……」
「なに、走ってきたんか? 顔真っ赤だし……大丈夫かよ……」

 肩からずり落ちそうになっているあたしの鞄の紐を戻しながら、嵐斗くんがあたしの頬を手の甲でさわった。めっちゃ冷たいその感触に、物理的にも心理的にもひゅっとなった。

「ごめんね! 寒かったでしょ!? おうち入ろ!」
「ん」

 手を引いてドアの前に立ち、鞄をごそごそする。ごそごそ。ごそごそ。ごそごそ。

「アテナちゃん?」
「ごめ、ちょっと待って」
「うん」

 え、待って、嘘だろ、ない。

「キーケースないんだけど」
「ハ?」
「ちょっと待って今めっちゃ記憶探ってる」

 頭を抱えて、お疲れ様でしたを言ってからの行動を振り返る。お疲れ様でした、で休憩室戻って、隅っこに置いてある個人ロッカーに鍵を挿して鞄とコート取って、…………。
 あ……と思ったところでスマホが着信を拾った。晶さん。あ、役満。

『もしもしアテナちゃん〜? ロッカーにキーケース挿しっぱだよ〜。これおうちの鍵とかあるんじゃないの? 大丈夫〜?』

 けらけら笑いながら予想通りの報告をしてくる晶さんに、もう何の言葉も出ない。

「すみません取りに行きます…………」
『え、もしかしてもう家? あははウケる』

 しょんぼりを越してどんよりしているあたしから、嵐斗くんがスマホを奪った。

「もしもし、あ、うんそう嵐斗。アテナちゃん今日うちに泊めるから、キーケース預かってあげておいて。うん、あざっす」

 通話を切って返してくれた嵐斗くんが、くいと顎をしゃくった。

「行くぞ」
「……ごめんんん……」
「いや、なんか……」

 階段を降りながらあたしがべそべそすると、嵐斗くんはほっとしたように笑った。

「気が抜けたわ。俺緊張してたのかもな」

 その言葉の意味を、あたしはいまいち正しく理解できなかった。気がする。

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