03


「今すぐ帰ってください。これは命令です」
「……」
「主の命が聞けないのか?」
 のんびりとした、しかしどこまでも鋭く冷たい針のような声色に、シディアンはおののく。こういうときに、彼はやはり王となるに相応しい冷徹さを持ち合わせた人間であることを理解する。
 ヴェルデはおそらくシディアンの心情などはどうでもよくて、ただ単にセレネのことを案じているだけなのだ。それに気づくとどうにもやりきれない気持ちにはなるものの、ここまで言われてしまって今日の仕事がつつがなく進むはずがない。
「……かしこまりました」
 すごすごと踵を返すことにする。城内を、速足で抜けてからはほぼ走っていた。セレネが仕事に行く準備をするまでにはまだ時間がある。それに彼女も目的地は城なので行き違うことはないだろう。しかし、シディアンはこうなってしまえば早く帰りたかった。セレネに一刻も早く、今日は国王の恩情にて休みをもらえたからずっと一緒にいよう、と告げてやりたかった。
「ただいま」
「……シディアン?」
 荒々しく扉を開けて部屋に入ると、まだベッドの中にいたセレネが驚いたように顔を上げた。そののろのろとしたしぐさに、やはり身体がだるいのか、と思う。シディアンよりもよほど、セレネを気遣えているヴェルデが憎たらしく思える。
「どうしたの……忘れ物?」
「……今日は休みだ」
「えっ?」
 きょとんとして起き上がった彼女のもとまで向かい、ベッドわきに跪き、その手を取る。外にいて少し冷たくなった自分の手と、ベッドにいてぬくもった小さな手が重なって、あわく体温の行き来があった。
「…………こんなことを正直に言うのはとても腹立たしいが」
「……?」
「国王に、もっとセレネを気遣ってやれないのかと怒られた。たしかに、短慮だった」
「ヴェルデさんに?」
 ういういしい青褪めた唇がヴェルデの名前を紡ぐだけでも腹立たしい。そんな考えが自分勝手で短絡的であることは重々承知している。
「旅行の代わりとは言えないが、今日は一日、一緒にいよう。身体がだるいなら、ベッドの中で過ごしていても構わないし……」
「……」
 身体がだるい、と言ったところで、セレネの猫の耳がぴくりと反応した。
 それから、おずおずと口を開く。
「……ほんとは」
「ああ」
「ほんとは、なんだか身体がだるくて、お仕事行きたくなくて、ぐずぐずしてた」
「……」
「でも、シディアンがんばってるのに、わたしだけさぼっちゃいけないと思って、がんばろうってずっと思ってたんだけど、ベッドから起き上がれなくて……」
 悲しげに眉を下げて耳も垂れさせた彼女に、ますます情けなくなる。ヴェルデの言う通りではないか。セレネにはほかに参考にする人間がいないのだから、シディアンの背中を見てその通りに振る舞うしかないのだから、よく考えればそれは当然だったのに。
「ご、ごめんなさい……わたし、わたし」
「セレネ」
 泣き出しそうな顔で紡がれる謝罪を、唇でふさいで、シディアンはごく近い距離でセレネの左右で色の違う瞳を見つめた。
「悪かった。ああいうことをしても、男は痛くないし、のちのち身体がつらくなることもないんだ。女性の身体に負担が大きい行為だから、セレネがつらいのも当然だし、俺はがんばれる。それなのに……そんなふうに思わせてしまって悪かった」
 彼女の傷ついた心は、何度こうして解きほぐしても、すぐに絡まってしまう。それが歯がゆいのと同時に、そうやって繰り返すうちに少しずつセレネの気持ちがまっすぐになってくれればいいという希望も見出してしまう。
 こめかみを、雫で濡らして、セレネは幾度かまばたいて言う。
「今日は、お仕事ないの?」
「ああ、ない」
「ずっと一緒にいてくれる?」
「もちろん」
「くっついて寝てもいい?」
「きみがしたいなら、どんなことでも叶える」
「シディアンは?」
「え?」
 不意の問いかけに首を傾げる。
「シディアンは、わたしとくっついて寝たいって思う?」
「……」
 一瞬、問われたことの意味が分からずに黙すると、セレネにしては珍しくたたみかけるように告げる。
「わたしがしたいことをしてもらっても、シディアンがほんとはいやだって思ってたら、意味ないから……」
「……。……俺は」
 声を喉奥で詰まらせる。散々セレネにくっついて寝るなと言った反動がこんなところでくるとは。
「……きみにまた無理を強いてしまうかもしれない」
「え?」
「くっつかれると、どうしても、その、……気持ちが昂るというか」
 しどろもどろになりながら、どう言えば婉曲かつ確実にセレネに伝わるのかを必死で考える。
 けれど、それをすぐに諦めた。
「いやだ……?」
「っそんなわけは」
「よかったあ……」
 ふにゃりと真綿をつつくように相好を崩し、セレネが泣き笑いの表情をつくる。たまらなくなって、シディアンは床につけていた膝を浮かせ、ベッドに乗り上げてセレネに覆いかぶさった。
「シディアン?」
「………………着替える」
「う、うん」
 勢いのままにセレネに乱暴なことをしてしまいそうだった自分を厳しく律し、シディアンはどうにかこうにか外套を脱ぎ、楽な服装に着替える。暖炉に薪をくべてベッドに戻ると、セレネはじっと彼を見つめていた。
「どうした?」
「ううん、見てただけ」
 どちらからともなくほほえんで、そうっと軋ませぬようにベッドにもぐり込む。セレネの身体を気遣うように腰を撫で、引き寄せた。
 ぴたりと胸板に顔を寄せ、セレネは猫のように肩をすくめて気持ちよさそうに目を閉じる。そのあわく薄桃に色づいた白っぽく青褪めた唇に、唇を重ね合わせる。
 すべてがヴェルデの考えた通りに進んでいるのが気に食わないのと同時に、ただひたすらに満ち足りて満たされた気持ちになる。
 言わなければ、と思う。セレネに、伝えなければならないことがあるのだ。
「セレネ」
「ん、う」
「きみが好きだ。なかなか、きみのようにうまく口には出せないし紳士的でもない、今日みたいに気が利かずにほかの人間に指摘されて初めて気づくことも多い。それでも、きみを愛している気持ちは誰にも負けないと信じている」
 ぽうと夢みがちなとろんとした瞳がシディアンをぼんやりと見つめ、それから顔を赤く染める。
「セレネ、愛している」
「…………」
 口をぱくぱくと魚のように開けたり閉めたりして、数瞬ためらったのちに、ぽすんと小さな頭が胸元に弱弱しく叩きつけられた。
「ずるい……」
「何がだ?」
「…………あのね」
 何が、という問いへの答えはなく、普段なんの衒いも迷いもなく恥ずかしい言葉を告げてしまうセレネがひどく脆弱に舌を操ってためらいがちに紡いだ。
「……わたしも、あいしてる」


20170219

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