02


 翌朝、すやすやと腕の中で眠るセレネの額にくちづける。耳が、ぴくりと動いて反応したが、それ以上、意識の浮上にまでは至らなかったらしく、セレネは再び安らかな寝息を立て始めた。
 ゆっくりと慎重に毛布から身体を抜き取り、ベッドを下りる。セレネよりも出かける時間が早いため、シディアンは台所で簡単な朝食をふたり分つくり、準備を済ませてしまう。
 セレネの朝食をテーブルに置いて、自分はすっかり準備を終えてあとは家を出るのみとなったところで、ベッドに戻ると、セレネがぼんやりと視線をうろつかせているところだった。ベッドわきに片膝をつく。
「起こしてしまったか?」
「……」
 夢うつつのセレネの髪の毛を撫でて、耳元に唇を落とす。くすぐったそうに身をよじり、セレネが口を開いた。
「もう、いっちゃうの?」
「ああ。ほんとうはついていてやりたいが」
 昨晩無理をさせたので、セレネのそばにいてやりたい気持ちはあるが、仕事は休めない。
「セレネは、今日は休んでも構わないぞ」
「……ううん、おしごと、いく」
「身体は大丈夫なのか?」
「うん」
 まだ寝起きであるため少々あやしいものの、しっかりと言葉にしたセレネに、シディアンは微笑んで髪の毛を掻き混ぜた。
「では、運がよければ城内で会えるかもしれないな」
「……うん」
「セレネ、ほんとうに大丈夫か?」
 受け答えがぼんやりとしているセレネに心配になり、シディアンがそう声をかけると、セレネはふにゃりと相好を崩した。
「だいじょうぶ、がんばる」
「無理はするな。休憩はきちんととって、仕事もほどほどにな」
「うん」
 真白な手が伸びてきて、シディアンの頬に触れた。
「しでぃあんも、おしごとがんばってね」
「……ああ」
 立ち上がり、もう一度セレネの耳をくすぐって、シディアンは家を出た。春先とは言え、冷たい空気が包み込む。まとわりついて離れないその冷たさに気持ちを引き締め、やわらかかった表情もやがて厳しくなる。
 団長職に与えられている執務室に着くと、そこには先客がいた。
「……国王様、何をしておいでですか」
 執務室の椅子にふんぞり返るように腰掛けて、尊大にその青い瞳でこちらを見ている男に、シディアンは嫌な予感を覚えつつもそう問いかけた。
「あなたこそ、何してるんです?」
「と、言いますと」
「なぜここに? 昨日、兵士に頼んだはずなんですが……」
「何のことです?」
 これ見よがしにため息をついて見せたヴェルデは、適当に置いてあった調書をめくりつつ呟く。
「本日は団長を公休扱いするように、と」
「なぜです?」
 眉を寄せヴェルデを見たシディアンに、彼は呆れたような口調で言った。
「なぜ? きみ、本気でそんなこと聞いてます?」
「ええ、まあ……」
 ヴェルデの意図するところがまったく読めず、シディアンはただただ疑問を育てるに徹する。
 シディアンの思考回路が詰まってしまった辺りで、ヴェルデが体勢を変え、ふんぞり返っていたのを通常の状態に戻し机に肘を乗せた。
「セレネのために決まっているでしょう。せっかくの婚儀の翌朝、ひとりぼっちにさせるその神経を疑ってしまいますね……新婚旅行に行ってこいなど、さすがの僕もそんな大盤振る舞いはできませんけど、一日くらいの休みは与えられるわけですよ……」
「……」
「兵士たちには、何が何でも団長に仕事をさせるなと言伝を」
「……」
 頭が痛い、シディアンはその気持ちに逆らわず、頭を抱えた。
 そんな馬鹿な話があってたまるか。仕事に私情を挟むなんて、シディアンの美学に反する。
「お言葉ですが国王様……」
「ああ、いいです。どうせきみのことですから、仕事に私情を挟むなんていう馬鹿な話がまかり通ってたまるか、といったところでしょう?」
「……分かっておられるなら……」
「まさかと思いますが、セレネも今日仕事を?」
「自分が出る際に、休んでもいいとは言っておきましたが、本人は行くと」
 ヴェルデが目を見開いて、ため息をついた。小鼻を膨らませ、鼻息も荒く彼は立ち上がる。
「あなたが仕事に行くから、セレネはそれをふつうのことだと思ってしまうんですよ。ほんとうに救いようのない、仕事馬鹿ですね!」
「ば……」
 一国の主の口から放たれたとは到底思えない幼稚な罵倒に、シディアンは鼻白んで言葉を失う。
 そのままヴェルデはつかつかとシディアンに歩み寄り、心底軽蔑するような目で睨み上げ、足を踏んだ。
「……!」
「今すぐ帰らないと、優秀な兵士の足が数週使い物にならなくなってしまいますねえ……」
 剣呑な声色で、脅しとも本気ともつかないことを言いつつ、ぐりぐりと踵で爪先を踏みにじる。悶絶しながら、シディアンはそれでも抵抗した。
「ヴェルデ様、お気遣いはありがたく存じます、しかし……」
「そもそも騎士団に入隊した理由が理由のあなたに、私情を挟むだのなんだの言われたくありません」
「…………」
 そこを突かれると痛い。たしかに、復讐のために騎士団に入った。それに、セレネを匿った理由も、大義名分をかざしておきながら自分の利益のためだった。
 ヴェルデの足が不意に遠のく。解放された足を密かに気遣いながら、シディアンは少し低い位置にあるその青色の瞳を見つめた。じっと見つめ返して、ヴェルデは声高に言い放つ。

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