05


 大事な人一人すら守れずに、何が正義なのか。
 荒い息を吐きながら、シディアンは目の前で小さく縮こまりシディアンが掴んだ腕を振りながら引き剥がそうとしているヘーゼル子爵をじっと眺めた。
「騎士団風情が、私に手を上げて無事でいられると思うなよ!」
「……子爵、あなたはもう犯罪者だ。子爵の称号は剥奪され、家族と引き離され、重い罰を受けてもらわねばならない」
 哀れだと思った。これが追い詰められた人間の末路なのかと。
 この腕が傷だらけのセレネに触れて、その心をさらに深く深く傷つけたのだと思うと許せなかった。
子爵がいったいセレネに何をして何を言ったのかまでは分からない。ただ、十年間追い続けた、彼女を傷つけ弟を奪った仇が目の前にいるだけで、シディアンの怒りはふつふつと燃えさかり、反対に心の芯は冷たく冷たく凍っていく。
 首筋から流れる血を空いた手で拭うと、子爵がおびえるようにそれを見た。平気で女子供を金銭でやり取りするくせに、こういった生々しいことに慣れていないらしい。つくづく救いようがない。
「その命をもって、今までのことを後悔していただく」
「……!」
 ヴェルデがあの場に現れたということは、確実な証拠があるのだろうと思う。彼はそういうところでやけに慎重だ。もしそうでなかったとしても、自分が絶対にこの男とアージュだけは逃さない。地位や名誉を失ったとしても、地の果てまで追いかけて必ず糾弾してみせる。
 ひ弱な子爵の腕をぐっと掴み、後ろ手に拘束する。彼はまだ何かわめいていたが、シディアンはそれを黙殺した。
 城の地下牢に引き立てる途中、反対側からやってきたヴェルデと兵士にに出くわした。アージュの姿がないことを見るに、すでに彼は牢につながれたあとらしい。
「……ご苦労さまです」
冷たい笑みを浮かべ、まったくそう思っていないだろうにそう呟いたヴェルデが兵士に片手を上げて合図した。シディアンは、いまだぶつぶつと呟いている子爵を兵士に引き渡す。
 子爵と兵士の背中が地下牢の方角に消えるのを見守ってたっぷりと有り余る沈黙の中、ヴェルデが子供のように眉を寄せぽとりと呟いた。
「あなたには失望した」
「……」
「子爵など、追いかける価値もなかった」
「……取り逃がしてしまえば、この広い王国で見つけることは難しい」
「セレネは最後まであなたのことを気にしていました」
「……最後?」
 引っかかる物言いに、シディアンは思わず噛みつく。ヴェルデは、感情の読めない瞳をシディアンに向け、そして伏せた。長く深いため息がその唇から漏れ出る。
「セレネは、すべて思い出したそうです」
「……」
「実の親に虐待された末、人身売買組織に売り飛ばされたことも、子爵のことも、すべてね」
「……そうですか」
 できるなら、思い出さずにいてくれればよかったのに、と今更思っている自分がいることに気付く。アージュのおかげで組織を摘発することができたのだから、セレネの記憶は必要ないことに、結果的にはなったのだから。
 自分勝手すぎる。そしてやはり、彼女が記憶を取り戻したことに、自分だって絶望している。
「その上で、もう……」
 ヴェルデがそこで言葉を切った。シディアンはぼんやりとその表情をうかがう。つらそうに眉をひそめ、唇を震わせた。彼にしては珍しくと言うか、初めて見る、泣きそうな表情だった。
「シディアンとはいられないから、あなたの家を出て行くと」
「な……」
「あなたに分かりますか、セレネの気持ちが。どこにも行くあてがないというのにあなたのことを思って出て行くと言うんですよ、泣きもせずに」
 悔しそうにうつむいたヴェルデに、シディアンは何も言えなかった。どうして、と思う。どうして出て行くなんて言うのか理解ができない。自分といられないその理由はなんなのだろう。
「……セレネは、今どこに」
「知りたいですか、セレネよりも自分の正義を取った隊長さん」
「……」
 嫌味たっぷりのその刃物のような言葉に、思わず返す言葉をなくすが、それでも頷いた。話がしたい、それよりも一目でいい、元気な姿が見たい。
 ヴェルデは値踏みするような視線でシディアンの頭から足の爪先までたっぷり三往復はしてから、ふんと鼻を鳴らした。
「僕の後宮にいます」
「え」
「アージュを捕らえても、まだ身の安全が完全に確保されたわけではありませんから。侍女の見張りの目もありますし、そこが一番安心だったわけです」
「しかし……」
「何か文句があるんですか、隊長」
「……いえ」
 後宮に、自分が入ってよいものなのだろうか。ヴェルデの後宮と言えば、今まで正妃はもちろん、妾の誰かがいたこともないまっさらな場所だ。そんなところにセレネを入れたということは、だ。
「ヴェルデ様、まさかあなた」
「勘違いはしないでいただきたい」
ぴしゃりとヴェルデが言い放つ。
「僕は、大好きな友人が満身創痍で気を失っているので休む場所を提供したまでです。それとも……僕自身の寝室を宛がったほうがよかったですか?」
「……」
「今回は特別に、君が後宮に入ることを許可します。ただし」
 そこで、ヴェルデはいったん口を閉ざし、にたっと笑った。
「結果次第ではあなたの地位と名誉をありとあらゆる方法で踏みにじります」
 走り出していた。
 地位も名誉もどうでもいい。そんなもの何の役にも立たないし、自分はただの一兵士で構わないしそれも叶わないなら別に何者でもいい。しかしどうしても譲れないものはある。
 ああは言ったが、ヴェルデはきっと。
 ちらりと窓の外を見ると、もうすぐ春がくるというのに、夜空から白い欠片がちらほらと落ちていた。この国では珍しくもないことだが、シディアンは、セレネを初めて見たあの夜のことを思い出していた。
 傷だらけで雪野原に倒れていた猫耳の少女を、利用しようと思ったあさましい自分が、こんなことを望んでもいいのだろうか。
 まだ答えは出ない。しかしもう、迷いはない。
 迎えに、行かなくては。

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