07


 冷たく、薄暗い。
 そんなこの部屋に押し込まれ何日経っただろうか。
最初のうちセレネは意地でも、アージュの運んでくる食事に口をつけなかったが、空腹にはどうしても勝てなかったし、何よりあまり反抗するとアージュが脅しとも本気ともつかない発言をするので、しかたなく少しだけ食べることにした。
 それでもやはり体力が日に日に落ちていくのは自分でも分かるくらいだったし、気力もなくなっていく。
 部屋の隅で縮こまってしくしく泣きながら、セレネはどうにかしてここから出たいと、そればかり考えていた。アージュに見つからないように脱出できればそれが一番いいが、この部屋の外がどうなっているのか分からない以上、それも簡単ではない。
 アージュは朝と夜に食事を運んでくる。その回数を数えていないから分からないが、おそらくもう一週間はここに閉じ込められている。
 そういえば、昨日の夜と今日の朝は、食事が運ばれてこなかった。
 あまりに悲しくてうずくまっていたから特に今まで意識もしなかったが、なぜだろう。セレネはゆっくりと、組んでいた腕にうずめた顔を上げた。
 光の差し込み具合からして昼のようだ。ぐう、と腹の虫が騒いだのと同時に、胸も騒ぐ。
 ふと考える。このままアージュに放置されたら自分はどうなる、と。
 寒さと恐怖に、唇がわなわなと震える。こんなところで死にたくはないのに、あんな奴に殺されたくなんかないのに。シディアン、シディアン、シディアン。
 と、その時、外からかんかんかん、と音がする。誰かが階段を上がってくる靴音だろうことが想像つく。しかしいつものアージュの足音にしてはずいぶんと荒っぽいし乱れている。
 びくびくしながらその足音が近づいてくるのをただ黙って聞いていると、荒々しく扉が開かれた。
「ふざけるな!」
「ッ!」
 扉が開くなり怒鳴られて、セレネはびくっと体を縮こまらせて目をつぶった。そうっと目を開くと、少し息を乱したアージュが立っていた。アージュは、まっすぐセレネのところにやってきて、髪の毛を掴んでセレネを立ち上がらせた。鋭いセレネの悲鳴に躊躇することもなく、アージュが怒鳴る。
「どうなってんだ! お前を餌にシディアンを抱き込むはずだったんだぞ!」
「……?」
「あの野郎、そんな脅しには屈しないだとか……くそっ、どうなってやがる」
「……」
 掴んだ髪の毛を離し、アージュがセレネの体を突き飛ばして壁に叩きつけた。
「いたっ!」
「シディアンさえこっちのもんになれば、兵士だって自在に操れるってのに!」
「……」
「お前はシディアンの女じゃないのか!」
 打ちつけた背中がずきずきと痛む。そっとアージュを見れば、その目は怒りに燃え盛っていた。
 断片的なその言葉の意味をひとつずつ拾い、セレネはおそるおそる、アージュをなるべく刺激しないようにと気をつけながら、震える声で言う。
「シディアンは、わたしを見捨てたの?」
「……どうやらそうらしいな」
「……」
 不思議と、悲しくはなかった。シディアンにとっての自分がそんなに大きな存在であったなんて思っていないし、むしろほっとしたくらいだ。シディアンにこれ以上迷惑をかけずに、済む。
 つらいし胸は痛むけど、セレネはシディアンの足手まといにならずに済むのだ。恩返しができない、そんな気持ちだけが心にこびりついているけれど。
 きっと、用済みになった自分は殺される。死ぬのは怖いし痛いのも嫌だけれど、これまでの漠然とした不安にさらされながら無気力になっていく日々を送るよりは、ましかもしれない。
「……まあ、お前にはまだ働いてもらうけどな」
「……え」
 ぴくりと耳が動くのが自分でも分かった。まだ、何かあるのか。シディアンに見捨てられた自分がこれ以上何か役に立つとはとても思えない。
 むしろこの男にこれ以上利用されるくらいなら、まだ死んだほうがましなんじゃないだろうか。これ以上、みじめになるくらいなら。
 セレネが警戒してじっとアージュを見つめていると、彼はふと笑った。
「心配するな。お前があるべきところに帰るだけだ」
「……?」
 意味の分からない言葉を投げつけられ、セレネは訝しく思って首をかしげた。あるべき、ところ?
 わたしが忘れていることを、この男はもしかして知っている?
「なんだ、その顔は。まさか、忘れたわけじゃないよな?」
「……」
「へえ。都合よく、記憶喪失ってか」
 頭の中で警鐘が鳴る。
まさか、忘れたわけじゃないよな。都合よく、記憶喪失。
 セレネにも、これだけあけすけに言われれば分かる。セレネが忘れている記憶は、セレネに取って都合のいい記憶ではないのだということが。
 思い出したら駄目だ。これ以上踏み込んだら、戻れなくなる。
 脳が燃えるように熱い。ずきずきと疼き出す。セレネの意思に反して、体が思い出そうとしているのが分かる。
 それに拍車をかけるような、ぞっとするほど優しい声がした。
「それにしても、こんな高い塔に軟禁とは、さすが騎士団の団長さんはやることの格が違うね」
「……子爵に言われたくはないな」
 はっとして扉のほうに目をやると、黒いコートを着た細身の男がそこに立っていた。黒いシルクハットと顔の色白さの対比がここ数日石壁とアージュしか見ていないセレネの目にはまぶしく映った。
 こつん、と男が近づいてくるたびに、高い足音が鳴る。セレネはなぜか、その男から目が離せずにいた。この声を、わたしは知っている。いや、知らない。知るはずがない。でも。
 男が、セレネの手前まで来て、視線を合わせるようにしゃがみこんだ。ふわりと鼻孔をくすぐるほろ苦い、少し癖のある香り。この部屋は少し冷たいくらいのはずなのに、どっと汗が吹き出した。目が、そらせない。
「よくも逃げ出してくれたね」
 にっこりと、優しい笑みを浮かべて、その壮年の男が冷たく吐き捨てた。
 逃げ、出す……?
「ただ私にとっての幸運は、君がそこらで野垂れ死にしてなかったこと。いい人に拾ってもらえて、ひと時の夢を見られて、よかったね」
 目が笑っていないその微笑みは、どこか空虚で薄暗い。伸びてきた、革の黒い手袋に包まれた手。無意識に、体が逃げを打つ。
「聞けば、名前までつけてもらったらしいね」
 必死の抵抗をものともせず、男の手はやすやすとセレネを捕まえた。
「君には名前なんか、ないくせに」
 あ。
 その言葉が引き金になって、セレネの頭の中に、雪のように、記憶の欠片が一枚ずつ一枚ずつ降ってきて隙間を埋めていく。少しずつあらわになっていく記憶がセレネの胸をぎゅっと締めつけた。
 あ、ああ。
 思い出した……。

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