06


 頬に触れると、何かがこびりついている。乾いた血なのかな、と思いながら、扉に向かって一歩ずつ進む。
 しかし彼も、甘くはなかった。扉はもちろん鍵がかかっていて、引いても押してもうんともすんとも言わない。
 しばらく扉と格闘したのち、セレネはそこからの脱出をあきらめざるを得なかった。はあ、とため息をつくと、まだ冷たい初春の風がふわりとセレネの髪をくすぐった。シディアンが切ろうかと言っていた長い髪が、ふわふわと揺れる。
 風が吹いているということは、どこかに隙間があるということだ。
 セレネは、辺りを見回して、月明かりの差し込む窓に目をつけた。がんばればなんとか届きそうな高さにある。
 よっと声を出して石と石の隙間に手をかけ足をかけ、壁をよじ登る。冷たい石に剥き出しの手足が触れて凍えそうになるが、セレネは必死で登り続けた。
「きゃっ」
 ごつごつした石だが、やはり手や足が滑って何度か床に体を叩きつけてしまう。打ちつけた尻や腰が痛い。それでも、シディアンにこれ以上の迷惑はかけられない、その一心で、セレネは必死で壁を伝う。
「よい、しょ」
 何度目かの挑戦で、すでに空が白み始め部屋の中もうっすら明るくなり始めたころ、ようやく、セレネの震える手が窓枠を捉えた。窓にするために少し奥行きのあるそこによじ登って、窓の外を見て絶句した。
「……うそ」
 眼下に広がるのは、濃霧の立ち込める城下町。この部屋は、どうやら塔のような場所であるらしく、地上からはるかな高さを誇っていたのだ。もちろん、階段などがあるはずもなく、セレネがこの窓から脱出するには先ほどのように石に手足をかけて下りていかなくてはならない。それも今度は、外の壁を。
 無理だ。一度でも足を滑らせれば打撲なんかでは済まない、一巻の終わりである。
 無理だと思いつつも、窓から身を乗り出して、セレネは霧に目を凝らしてこの塔がどれほどの高さなのか測ろうとした。その時、背後から声がかかる。
「無駄だぜ。ここは断崖絶壁に建ってるんだ」
「……!」
 振り向くと、扉の近くにアージュが立っていた。もうすっかり明るくなり、その姿は昨晩ランプ越しよりよく見える。鋭い目つきに、赤銅色の硬そうな髪の毛が攻撃的な印象を与える。
 そして、断崖絶壁、の言葉にセレネがもう一度窓の外を覗き込むと、霧も晴れてきて先ほどより景色がよく見えた。はるか下のほうに森が見える。そして、アージュの言った通り塔は崖に沿うように建てられていることが分かった。
 これでは、なんとかして伝い下りることすら不可能だ。
「それにしても、そこまで登る度胸があったとは、驚いた。無駄な期待をさせて悪かったな」
「う、うるさいです!」
 せせら笑うその態度に、馬鹿にされたとセレネは顔を真っ赤にして怒鳴り、もう一度窓の外を見る。どうにかしてこの窓から脱出できないものか……。
 しかし何度見ても塔の高さが変わるわけではない。セレネは、この小さな窓からの脱出を断念した。しかし、それがすなわちアージュへの屈服を意味するわけではもちろんない。
「下りてこい。朝飯だ」
「……」
 窓の奥行きのあるくぼみに座り込み、セレネは黙って首を振った。幸いここまではアージュの背も届かない。と思っていると、不意に足首を掴まれた。
「きゃあ!」
「猫の分際で聞き分けの悪いことをするな」
 背は届かないが伸ばした手は届く。そんな初歩的なことを忘れていたセレネの足首はアージュの太い指に掴まれ、引っ張られる。落ちる!
 きたる衝撃にぎゅっと目をつぶって耐えようとしたセレネを迎えたのは、意外にもふわりとした感触だった。
「……」
 そろっと目を開けると、どうやらアージュの腕に抱きかかえられているらしかった。それを察知して、セレネは暴れる。自分のあまりの情けなさに、涙がにじむ。
 シディアンはきっと心配している。探してくれているかもしれない。こんなところで自分がもたもたしているうちにも、シディアンにかかる迷惑はどんどん蓄積していくのに。
 暴れるセレネにため息をつき、アージュはセレネを床に降ろす。その隙を突き、セレネは扉に向かって突進した。
「おい」
 今彼が入ってきたのなら開いているはず。そしてその予想はたがわず、セレネが扉を引けば簡単に開いた。しかし、その先に見えた階段へ突き進もうとしたところでアージュに腕を引かれてものすごい力で引き戻されてしまった。
「油断も隙もねえな」
 むなしく扉が閉まり、鍵がかけられた。部屋の隅に追いやられ、壁に体を押しつけられる。
「ぐ……!」
背中に痛みが走りセレネが思わずうめいて目を閉じて開けると、アージュの顔が目の前にあった。その目は驚くほど冷たい。
「妙な考えを起こすなよ。死体を処理するのは面倒だ」
「……」
 おぞましい言葉とその表情の残酷さにぞぞっと背筋が凍りつく。アージュの大きな手が喉に食い込んでセレネがえずくと、ようやく手が離される。激しく咳き込んで、セレネがしゃがみこむと、アージュもそれに合わせてしゃがみこんで覗き込んできた。
「おとなしく俺の言うことを聞いて静かにしていろ」
「……」
 気丈に睨むが、それを鼻で笑われる。今にも涙が零れ落ちそうだった。乱暴に髪の毛を引っ張られ、セレネが顔を歪めると、アージュはぼそりと呟いた。
「次に逃げようなんて考えたら、どうなるか分かるな?」
 こらえきれずに、目から涙がこぼれた。恐ろしさと悔しさで、それが止まらない。アージュは、にやりと笑みを浮かべ、おとなしくなったセレネを放って立ち上がり部屋を出て行った。彼の靴音が石畳に反響して、いつまでもセレネの耳にこびりついていた。

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