04


 散々だ。
 権力抗争というものは、実に醜い。表立っての動きはないのだが、水面下でのやり取りは目を背けたくなるほど汚い。それに進んで身を投じているヴェルデの精神力たるや、脱帽である。
 なんだかんだと正論と綺麗事を並べたところで、皆権力が欲しいのだ。自分の影響力が強ければ強いほど、国を意のままに操れる。その力に目がくらんでアージュ側についてしまう大臣もいるわけだ。持ち駒が少ないアージュのもとへ下れば要職に就ける可能性はぐんと高くなる。
 それをつなぎとめるのがヴェルデの人柄だけでは、限界がある。所詮人柄で飯は食えない。だからヴェルデも、使いたくもない甘言を大臣たちの耳元で囁くしかない。
 シディアンの役目は、兵士たちの動揺をカバーして彼らがいつもどおり落ち着いて職務をこなせるよう精神をコントロールし、兵士たちが団長であるアージュでなく軍師であるヴェルデを敬うよう仕向けるだけだ。
 だけ、と言ってしまえばそれまでだが、それはあまりにも途方のない作業だった。
 一隊長である自分が団長であるアージュに刃向かうのは、あまり心証のよいものではない。第三部隊まである騎士団の隊長は自分だけではない。ただ、第二部隊の隊長は同じくヴェルデ派であることが、かろうじてシディアンの気力をつないでいた。
「父上の病状は、思うより芳しくないようです」
「……」
「今はかろうじて意識がありますが、このままではあとひと月持つか」
 ヴェルデはため息をついて、シディアンを見た。
「君には申し訳ないと思う。これだけ身を粉にしていただいているのに、何の見返りも与えられないことを」
 ヴェルデが言っているのは、出世のことだ。大臣たちに要職を提供してしまえば、シディアンに隊長職よりも上の位をそうやすやすと与えられないことは、近くで見ていればよく分かる。
「俺は、見返り欲しさにあなたの肩を持っているわけではないです」
 もちろんシディアンの正義としては、そんな見返りを要求する気は微塵もないし、何より。
「それに、今より忙しくなるのはごめんです」
「……実に、君らしい」
 大量の書類を前にしてそんなふうに無邪気に微笑めるヴェルデの神経も、実にヴェルデらしいが。とシディアンは思うが口には出さない。
 そんなこんなで大幅な残業のようなものをこなし、慣れない事務作業までして、シディアンは帰路につく。銀色の月明かりがきれいだ。セレネがもし起きていれば、見せてやろう。
そう思いながら家につけば、明かりはついていない。寝てしまったか、と思いつつそっと扉を開ける。
「ただいま……セレネ?」
 月明かりに照らされたベッドの上で寝ているはずのセレネの姿がない。疑問に思いながらテーブルの上に何気なく目をやれば、スープの器が置いてある。中に入ってその器を覗き込むと、食べかけだ。
 明かりをともし、セレネのいない部屋でぽつんと立ち尽くす。
「どこへ……」
 まさか、出て行ったのか。行くあてもないくせに?
 そう思って慌てて玄関に向かえば、あるものに気が付いてしゃがみこむ。
「……これは……」
 玄関の床についた染みのようなもの。赤黒く変色しているが、よく見覚えのある染みだ。
 血痕。
 さあっと血の気が引いた。
 立ち上がり、シディアンは今来た帰り道を走りながら引き返していく。頭の中がぐちゃぐちゃなのが、走って体を揺らすおかげでさらにぐちゃぐちゃになっていく。
城の入り口で呼吸を整えていると、門番の兵士が不思議そうに近づいてきた。
「隊長、いかがなされました?」
「緊急事態だ。俺を中に入れろ」
「しかし、今日の職務はすべて終わられたのでは?」
「緊急事態だ! 聞こえなかったのか!」
「は、はい!」
 やや強引に開門させ、シディアンはヴェルデの執務室を目指す。まだ明かりがついているところを見ると、彼は居残って何か作業をしているのだろう。ノックをして、返事が聞こえるか聞こえないかのところで扉を開けて中に押し入る。
「……シディアン隊長、どうかしましたか?」
 明かりと月の光が混じる不思議な、どこか妖しい雰囲気の明るさに照らされたヴェルデの目が、きゅっと細められた。

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