03


「シディアン?」
「……ヴェルデに何を言われたんだ」
「えっ」
 顔が、ぼっと熱を持つ。頭の中で、シディアンの優しい目つきだとか笑顔だとか大きな手のひらだとか怒ると少し大きくなる声などや、愛の告白だとか花言葉だとかそういったヴェルデの言葉が飛び交ってぐるぐるする。
赤くなってしまっていやしないかと心配して頬を両手で覆うと、シディアンはいかにもな仏頂面でそのしぐさを見つめた。
 その表情に気付かなかったセレネはぎゅっと目をつぶり、小さな声でシディアンに問いかけた。
「シ、シディアンは、あのお花の花言葉、知ってる?」
「花言葉……? いや、知らない」
「……ヴェルデさんが、言ってた。あのお花、……好きな人にあげるものなんだって」
「……なんて?」
 怪訝そうな声を上げたシディアンに、聞こえなかったのかと思いちらりと目を開けると、彼は、じっとテーブルの上の花を見つめていた。
「あの花が、好きな人にあげるものだって?」
 セレネがおどおどしながらも頷くと、シディアンは少し考えるようにまじまじと花を見て、それからセレネを見て、またも深く深くため息をついた。
「シディアン……?」
「悪かった」
「?」
 片手で口元を覆ったシディアンの謝罪に意味が分からなくて顔を覗き込めば、不自然にその視線をそらされる。首をかしげると、もう一度小さくため息をつき、シディアンは言う。
「さぞ迷惑だったろう。こんなむさ苦しい男にそんな花をもらっては」
「……」
 セレネの中で、むさ苦しい男とシディアンが合致しなかったため、意味を理解するのにかなり手こずった。そして、シディアンが謝った理由が分かったと同時、彼の発した言葉にびっくりして、セレネは思わず口走った。
「そんなことないよ! うれしかったよ!」
「……は?」
 そうだ。この花にそんな意味があると知った時、うれしかったのだ、自分は。
「シディアンは、いつも優しくて、すごく頼りになるし、時々怖いけどでも怒るのはわたしのためだし、とっても、とっても……」
 だから、悲しかったのだ、シディアンにそういう意図がないことや、もしかしてほかにこの花を贈りたい人がいるかもしれないと考えた時に。
「わたし、シディアンが大好きだから……」
 こんな自分が、素性すら知れない自分が、シディアンに好きになってもらえるはずがないのだ。厄介者にも、シディアンは優しいから、それを勘違いしてしまいそうになるのだ。でも、勘違いはしない。セレネはきちんと分かっている。
 それでも、好きになるのは自由なはずだ。覚えている。セレネは好きな男と一緒になればいいと彼が言った時のことを。シディアン? と聞けば何も咎め立てたりしなかったことを。たとえ一緒になることが叶わなくても、好きになることはなんでもないはずだ。
「……そうか」
「……」
 しばらくの沈黙のあとで、シディアンは淡々とそう言った。伝わったのだろうか、とシディアンの目をおそるおそる覗き込むが、その凛とした瞳は少しも揺るがない。もしも伝わっていたとしてこの反応なら、どう考えても望みはない。
 最初から別に、望んでなどいないがそれでもやはり、少し悲しい。
 もしも記憶が戻って、セレネがきちんとおさまるべきところにおさまれば、シディアンは少しは自分を見てくれるのだろうか。もしそうなら、記憶を取り戻したいと強く思う。
 記憶は、どうやったら取り戻せるのだろうか。このままシディアンのところに世話になりっぱなしで、果たして戻ってくるのだろうか。それともこの生活が心地よくて、記憶なんかどうでもいいと頭が思ってしまうだろうか。
「……聞いてるのか」
「はいっ」
 ぐるぐるとこの先の身の振り方を考えていると、気が付けばシディアンの怪訝そうな顔が間近にあった。飛び上がって返事をすると、シディアンは少し笑う。
「聞いてなかったな」
「……はい」
 聞いていなかったのはたしかなので素直に頷くと、笑みを深くしたシディアンは、セレネの頭を撫でた。その時初めて、シディアンが腰をかがめて自分と視線を合わせてくれていることに気付く。そのことにひどく胸が高鳴る自分はきっと、どうかしてしまったのだ。
「まあ、いい」
「……?」
 シディアンの大きな手が、髪の毛をぐしゃぐしゃと撫でた。それから、ふと眉をひそめる。
「髪の毛が、だいぶ傷んでいる」
「……あ」
 自分の毛先を見る。たしかに、先端に向かうにつれ、髪の毛はぼろぼろだ。たぶん、拾われた当初からそうだったのだろうが、セレネは正直なところそんなことには構っていられる状態ではなかった。
 ただ、それに気が付いたら今度は、傷んだ髪の毛をシディアンが触っていることに、猛烈な恥ずかしさが襲ってきた。
 シディアンの骨太な指が、セレネの髪の毛をすくう。腰近くまである長い髪の毛を散々いじくったあと、シディアンはぽつりと言った。
「毛先だけ、切るか?」
「え?」
「それとも、髪の毛は長い方が好きか?」
 シディアンが呟きながら髪の毛を一房すくって、毛先を人差し指と中指ではさみを真似するようにつまんだ。まるで、遊んでいるような、楽しんでいるような、もしくはほんとうに毛先が傷んでいることを憂えているような。
しかし、自分の銀色の髪の毛と絡むシディアンの指が気になって、セレネは内心それどころではなかった。
 自分の気持ちを自覚した途端に、あさましい気持ちが巣食う。触れられたい、触れられたい、触れられたい。火がついたように赤くなった頬を押さえてぎゅっと目をつぶって、そんな気持ちを振り払うように首を横に振る。
 期待はしてはいけないし、そもそも期待すること自体おこがましい。
 そう、自分に言い聞かせ、セレネは口を開いた。
「シディアン、あのね」
「なんだ?」
「お花、枯れちゃう」
「……」
「せっかくシディアンが買ってくれたのに」
 ちらりとシディアンの顔を覗き込むと、彼は少し考えて、不器用に微笑んだ。
「花くらい、いつでも買ってやる」
「……ほんとに?」
「俺は、嘘はつかない」
 また、同じ花をねだってもいいのだろうか。愛の告白に使われる花を。
 シディアンにとっては、花ごとき、というつもりでの言葉だったかもしれない。男らしいシディアンのことだから、花に頼らなくても愛の告白くらい自分でするのかもしれない。花にまつわる話なんて、もう頭から消えてしまっているのかもしれない。
 それでも、うれしかった。
 セレネは、ぎゅっと唇を噛んで、うつむいた。

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