03


 城の兵士の宿舎前の広場で部下の訓練を監督していると、隣にふと影ができた。
「精が出ますね」
 気が付いた兵士たちが、慌てて敬礼する。シディアンも敬礼し、その体勢を解いたあと眉を寄せた。
「……ヴェルデ様、本日の職務は終わられたのですか」
「今頃側近たちが僕を躍起になって探していることだろうな」
「……」
 ひょうひょうとした顔で仕事をすっぽかしていることを公言したヴェルデが、シディアンに微笑んでみせる。相変わらず、城下町、いや国中の心を掴む甘い顔をしている、と思う。ただしその微笑みは、シディアンには効果がない。
「執務室にお戻りください。あなたがここにいると知れたら俺にも火の粉がかかる」
「心外ですね。僕が君に迷惑をかけるとでも?」
「現在進行形で迷惑がかかっております」
 ははは、と愛想笑い程度に吹き出したヴェルデが、そうそう、と話題を切り替えた。
「君のところの猫さんは、元気で?」
「……猫?」
 ぎくりとしたが、感情を表に出さないよう顔の筋肉を引き締めてヴェルデを見る。ヴェルデは、いたって普通でいつもどおりうっすらと微笑んでいる。
「僕が気づかないとでも思いましたか? 室内でフードをずっとかぶっているからには何か秘密があることくらい、分かりますよ」
 シディアンはひそかに舌打ちしたい気持ちになる。
「注意して見れば見えてしまいますしね」
ばれていたのか。まあ、セレネが必死で隠すさまを見て、この鋭い王子が不審に思わないはずはないことくらい分かってはいたが。
 シディアンが露骨に、苦虫を噛み潰したような顔をしているのを見たヴェルデは、穏やかに首を数度横に揺らした。
「別に、咎め立てたりするつもりではないんですよ」
「……」
「可愛らしい子じゃないですか。僕の友達になってくれると言う」
「……ご無礼をお許しください、彼女はあなたの立場をよく理解していない故」
「無礼? とんでもない。あんな可愛らしい友達なら大歓迎ですよ」
 ヴェルデが彼女と親しいのはけっこうだ、と思う。思うはずが、どうも面白くないのはなぜだろうか。
 ため息をついて、もう一度職務に戻るようヴェルデに促しかける。
「ヴェルデ様、お仕事は……」
「僕はね、シディアン隊長」
 彼が自分を役職で呼ぶ時は、あまりいい話をする時ではないことを知っている。
「……」
「せっかくできた友達を失うような真似はしたくないのですよ」
「何をおっしゃっているのか、分かりかねますが」
 ぴくりと頬と目元が引きつったのがシディアン自身にも分かった。
「彼女を利用するつもりですね」
「……」
「勘の鋭い君のことだ、彼女がいったいどこから来たのか、見当がついているのではないですか?」
「……彼女は、俺の遠縁ですよ」
 今更な言い訳をすれば、ヴェルデはくすくす笑った。しかし、横目に盗み見た顔はまったく笑っていなかった。
「正義の味方が聞いてあきれてしまいますね。人身売買組織をあぶり出すためなら、彼女一人程度の犠牲は仕方がないとでも?」
「……」
 何も言い返せない。シディアンは歯を食いしばった。王族の証である絢爛な衣装を身にまとったヴェルデは、一歩シディアンから離れ、鍛練中の兵士たちに目をやった。
「僕もね、犠牲というものは仕方なく存在するとは思っています。己の正義のためなら、手段を選べない時というものはあるでしょう」
「……」
「しかし、他人の正義となると僕はどうでもよい。シディアン、君の正義は僕にはまるで関係ないですから」
「……おっしゃる通りです」
 杖代わりに持っていた細い剣の柄を撫でる。太陽の光が反射して、刀身が鈍く光った。
「だから僕は僕の正義を遂行しようと思っています」
「と言いますと?」
「友達を守りたいと思うのは、いけないことですか?」
「……いえ、ご立派なことだと思います」
シディアンを振り返り、ヴェルデはにっこり笑った。気まずくて、視線を合わせられない。じっと、かたくなに刀身を見つめる。
「君の正義がセレネを貫くことがあれば、僕は容赦しませんよ」
「……」
「肝に銘じておくように」
 遠くのほうで、ヴェルデを呼ぶ側近たちの声が聞こえる。ヴェルデは、それを耳にすると肩をすくめてため息をついた。
「それでは、僕はそろそろ」
「……」
 最後にヴェルデは、シディアンの肩をぽんと叩いて城のほうへ歩いていった。その背中が見えなくなると同時、シディアンは呪縛から解き放たれたようにどっと全身の力を抜いてしゃがみこんだ。
「隊長?」
「……なんでもない」
 心配そうに駆け寄ってきた部下が、王子の去った方向を不思議そうに見つめる。それに返事をしながら、シディアンは体勢を立て直しまたもとのように立ち上がった。
 セレネを犠牲にするつもりは毛頭ない、と言い返すことができれば、どれほどよかったか、と考える。
 もちろん意図的に犠牲を払うことは自分の倫理に反する。ただ、もしもの時、というものを考えないほど無鉄砲でもないのだ。
 握りしめていた手のひらを見る。騎士団に入団したころ、この国は隣国との戦争のまっただ中だった。戦地に赴いたこともある。国のために人を斬った。そしてその分斬られた仲間もいた。どちらの経験も、胸くそ悪くなるばかりだった。だからこそ、犠牲、の重みを知っているし尊さも知っている。
 ヴェルデは、シディアンが正義感に突き動かされて行動していると思っているかもしれない。ただそれは少し、違っている。
 セレネのなくした記憶の中にきっと、自分の望む情報がある。昔、自分の弟を非情にも奪った人身売買組織の情報が。騎士団に入隊する少し前のことだ。唯一の身よりであった弟を組織に奪われた時に感じた激しい怒りややるせなさは、十年経った今もまだこの胸にくすぶり続けて燃え尽きないで、シディアンを駆り立てる。
 自分の無力さを知った。だからシディアンは騎士団に志願して組織を追おうとした。セレネを助けたことは偶然だが何か見えないものの導きにも感じた。セレネが記憶を取り戻してそのあとどうするかまでは考えていなかったのが現実だ。自分の推測が正しければ、記憶が戻れば彼女は絶望の深淵に突き落とされてしまう。
 しかしそれでも、自分の正義は曲げられない。だから彼女に、ヴェルデがそうしてしまったように情を持ってはいけないのだ。
 それなのに、家に帰ればあたたかい食事があることや、青と緑のじっと見つめてくる一対の瞳があることに、慣れてしまっている自分がいる。いや、慣れるどころかすっかり安心してしまっている。
 たぶん彼女が記憶を取り戻す日、絶望するのは彼女だけではない。そんな予感がしていた。

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