04


 それにしてもいったいどこで、自分がセレネという少女を匿っていることを聞きつけたのか、とシディアンは目の前の男を見ながら思う。
 先日セレネをだました肉屋のおやじや八百屋の気のいいおばさんなど、なじみのある人には、遠い親戚の子供を預かっていると話した。そこから、城の兵士に話が広まってヴェルデの耳に届いたのかもしれないが、それにしたって、わざわざその少女を見に仕事を抜け出してまで家を訪れたりするものなのか。
 まさか、と思う。
 まさか人づてに話を聞いた時点ですでに、ヴェルデはセレネの正体を勘付いていたのかもしれない。そうだとしたら、侮れない。別に侮っていたわけではないが、ますます抜け目ない男だ。
 ヴェルデという男は、シディアンがいくら剣を教えても上達しない、いわゆる戦いの才能のない男だ。筋肉のつきにくい細身の体に剣は似合わないし、そもそも軍師が直接戦地に行くとなったらよほどの事態なので、自衛程度のことができればいいわけだが、それも怪しい。
 ただ頭がいい。正直なところ、シディアンは自分をあまり賢いとは思っていない。愚図だとも思っていないが人並みであることは自覚している。その点ヴェルデは、相当な切れ者である。
 だからこそ兵士から国民から、慕われているわけである。彼の頭脳は一国の王にふさわしい、と。
 先日部下が赴いた遠征についての報告を、この切れ者王子にしにきたわけだが、執務室の大きな執務テーブルの前に腰掛けているヴェルデは、頬杖をついてまるで仕事をする気がなさそうなのんびりした顔をしている。
「……報告は、以上になります」
「分かりました。下がってけっこうです」
「失礼いたします」
 目礼してそのまま下がろうとした時、背後の執務室の重厚な扉が蝶番の軋む音を響かせて押し開かれた。
 思わず振り返ろうとすると、それより先に声が響く。
「ヴェルデ、貴様またやりやがったな」
 ヴェルデと似た声質の男が入ってきて、シディアンは気づかれないようため息をついてそそくさと外に出ようとした。が、その腕を掴まれる。見逃してはもらえないようだ。ああ、ついていない。
「なんのことです、アージュ」
「とぼけるな。俺ばっかりくだらない遠征に行かせやがって」
 ヴェルデは、入ってきた赤銅色の髪の大男に目線をやって、不敵に微笑む。腕を掴まれたシディアンはと言えば、立場上むやみやたらに逆らうわけにもいかないのでされるがままにしておく。
「国のためである大事な任務を、くだらないとは?」
「うるせえ。こいつに、シディアンに行かせればいいだろう。伴侶も立場もない、失うものは何もないんだ」
「ずいぶんな言いようですね。あなたに失うものがあるとでも?」
「俺は次期国王だぞ」
 執務室の空気が変わる。楽な姿勢でいたヴェルデがすっと背筋を伸ばしてまっすぐにアージュを見つめる。シディアンも、掴まれていた腕を振り払い、アージュをまっすぐに見つめ返す。
「貴様らの思い通りになると思うなよ、次期国王の椅子は、俺が座る場所だ」
「失うものがないからという短絡的な理由で兵士を簡単に戦地に向かわせるあなたに、王としての素質があるとは思えませんが」
「貴様のように情に訴えれば何とかなると思うよりましだ」
 ヴェルデの口角がふと上がる。しかしその夜明けの海辺を思わせる双眸は一切笑みを浮かべてはいない。それどころか、どこか冷たい色にも感じる。
「しょうもない文句を言いに来ただけなら、即座に出ていってください。僕はあなたに構っているほど暇ではない」
「なんだと?」
 立ち込める険悪な空気に、たまらずシディアンは口を出す。
「アージュ団長。ここで無用な争いを起こして、国王様のお怒りをたまわりたいのですか」
「貴様は黙っていろ。俺はこの馬鹿と話をしてる」
「いいえ、黙りません。自分の主を罵倒されて黙っていられるほど出来た人間ではありませんので」
「貴様の上司は俺のはずだが」
 抵抗のつもりで目を見開いて、シディアンがアージュを睨みつけると、アージュはふんと鼻を鳴らしてくるりと踵を返す。ヴェルデに背を向けたまま、アージュはぼそりと呟いた。シディアンから見えるその横顔は、怒りに満ちている。
「そのうち、痛い目を見る」
 開けたままだった扉を荒々しく閉め、アージュは執務室を出ていった。アージュの姿が消えると同時に、ヴェルデは深々とため息をついて、両手の指を組んで机に置いた。
「後継者争いなど、参加したくないとは思っていたが、対抗馬があれでは、国のこれからをどうも憂えてしまいますね」
「……お察しいたします」
 アージュは、この国の第二王子である。とは言え正式な王妃の息子であるため、たしかに次期国王としてはもっとも有力なのである。しかしシディアンには、どうしても彼に王座を継いでほしくない理由があった。
 彼は、政にあまり明るくはない。線が細くどこかなよなよしているヴェルデと対照的に大柄で持て余すほどの力を持つアージュは、現職の騎士団長としての素質はじゅうぶんに備えている。しかしその有り余る力のおかげで、軍師であるヴェルデの戦略を無視しがちなのだ。兵士それぞれの個の力を重視しすぎるあまり、大局が見えていない。もちろん戦略を軽んじるのはヴェルデのことが気に食わないという子供っぽい理由も入っているだろう。
 騎士団第一隊長としてシディアンはその武力を尊敬こそすれど、国を牛耳る男としてはふさわしくないと常々思っていた。
 そしてもちろん、シディアンは頭のいいこの目の前の男こそ王座にふさわしいと考えている。その、知的な唇が開いた。
「君には失うものがないと、彼は言ったが」
「……」
「そんなことはないはずだ」
「どういう意味でしょうか」
 今度は、アージュに向けていた冷たい笑みではない、面白がるような笑顔で、ヴェルデはさらに言う。
「君が戦地でくたばれば、セレネはどうなります? いつまでも帰らない君を待って、さみしさに耐えながら一人で泣くことになるでしょうね」
「……」
「それにね、僕は彼の持論を否定したい」
 ヴェルデが立ち上がり、書架のほうへ向かう。目当ての一冊を手に取り、両手でそれをもてあそびながら、ヴェルデは唇を尖らせた。
「……失うものがある人間の底力を、侮るべからず」
 シディアンは、黙ったままそこに立ち尽くす。
「それに、そんなものさしで兵士をはかりにかけるようでは、生ぬるい。失うものがあろうがなかろうが、国のために命を差し出したという点では、どの兵士も同じ線上に立っていると言うのに」
 ヴェルデは、優しさを知っている。そして、それを知った上での残酷になるべきところも知っている。国のためとなれば容赦がないところ、自分の正義の遂行のためなら手段を選ばないところが、シディアンがヴェルデを王にふさわしいと思う大きな理由である。

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