羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 日陰に座ったそいつの頬はやっぱりまだ火照っていて、そのせいかいつもより表情が幼く見える。頬に手の甲を当てると、「もう熱くないから大丈夫だよ」と微笑まれた。伸びた黒髪が首筋で左右に分かれている。僅かに滲む汗に夏を感じた。やはり太陽が真上にあるとなると、海風はあっても少し暑い。でも、別にそれは不快な暑さではなかった。
「はい。これで手拭いてね」
「ありがとな。……お前、ちゃんと水分とれよ。はしゃぎすぎてぶっ倒れるなよ」
「ん、ありがと」
 ペットボトルを差し出すと、素直に受け取られたので逆に戸惑う。また心配しすぎだの何だの言われるかと思ったのだが、まあ、変に我慢されるより余程いい。
 そいつがペットボトルに入った水を呷る。白い喉が無防備に晒されて、口に入りきらずに顎から首筋を伝う水滴にどきりとさせられる。妙な気分だ。もしかして欲求不満なのだろうか、俺は。
「こぼれた……」
「零れたんじゃなくて零したんじゃ……まあ今の季節ならすぐ乾くから平気、だろ?」
 口の端を拭っているそいつに、さっき海辺で言われたことをそのまま返すと恥ずかしそうにはにかまれた。

「美味い?」
「おう。今日も美味い」
「よかったぁ」
 リクエスト通り玉子焼きは優しい甘さで、昔、運動会に母親が持ってきてくれた弁当を思い出す。誰かが作ってくれた料理はどうしてこんなに美味いのだろう。こいつは前に確か、「手間も気持ちも入っているから」と言っていた気がする。誰かの為に料理をすることができる人間というのは、みんなそうなのだろうか。
 こいつがどんな気持ちでいるのか、こいつの料理を食べることで魔法みたいに分かればいいのに。
 結局まだ、こいつには何も伝えられていない。戸籍がないとできないこととか、戸籍がなくてもできることとか。どう伝えればいいか分からなかったし、伝えてしまうことで取り返しのつかないくらいに傷つけてしまったらどうしようと俺が怖がっているというのもある。俺が今事実を伝えたところでこいつの過去を取り戻せるわけではないから、教えるのは逆に残酷なことなのかもしれないと思ってしまう。
 いや、それはていのいい建前か。本当はもっと単純なこと。
 こいつが自分一人でもできることが多いと知って、例えば自分で免許を取って車の運転でも何でもできるようになったとき、こいつはあの家から出て行ってしまうのではないだろうかと気付いてしまったのだ。
 別に、こいつが誰かの生活に依存しないと生きていけない現状を改善しなくていいと思っているわけではない……とは、思う。思うのだが、今の生活に未練があるのはきっと俺だけだろうなと考えたときに、寂しくなってしまうのは仕方ないと言い訳をしたい。
 要は、今の生活が崩れるのが怖かった。
 今日だってこいつは「つれてきてくれてありがとう」と嬉しそうにしていたけれど、本来ならこんなこと、わざわざお礼なんか言わなくても自分で実現できたはずなのだ。
 俺はもしかすると、こいつの弱みに付け込んで「ありがとう」なんて言わせて悦に入っている悪趣味な人間なのかもしれない。そう思ったら落ち込んでしまう。自分のことを聖人君子だと思ったことはないけれど、それでも悪人ではないと思っていたのに。
「たーかーなーりーさん、何ぼーっとしてんの? 暑い? 水飲む?」
「ん……いや、悪い。なんでもねえわ」
「大丈夫? 具合悪くなっちゃった?」
 心配そうにこちらを見上げてくるそいつにまた罪悪感が湧いた。自分のことは蔑ろにするくせして、人がちょっと上の空でいるだけでこんなに不安げな顔をするのか、こいつは。
「別に何でもねえっつってんだろ。ほら、お前もちゃんと食えよ。せっかくこんなにあるんだから」
「ん。孝成さんもいっぱい食べてね。頑張って作ったし」
 普段のゆるい言動からはちょっと想像できないくらい器用に箸を操って、そいつは弁当の仕切りのバランをプラスチックの取り皿の上に除けた。俺は冷めても美味いからあげを味わいつつ、そいつの箸遣いに見入る。
 この器用な手が、絶妙な力加減で卵を割ったり、出窓のサッシを丁寧に水拭きしたり、針金ハンガーの首の向きを変えたりしているのだ。細い指だった。白くて爪が薄そうで、けれど細かい傷も目立つ。そういう手だった。俺にはできないことや、面倒がってやらないようなことを率先してやってくれる手だった。
「お前、すげえなぁ」
「え、なにいきなり」
「いや、お前の手が好きだなっつー話」
「えええ……ますます意味わかんない……」
 へんなの、と首を傾げて俵型に握ったおにぎりを頬張るそいつは、いつもより食べる量が多い気がする。そんな些細なことにも安心した。

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